エリザベス女王の訃報で英王室の“不都合な真実”も浮彫りに 印象的だった晩年の手の甲のあざ
英国の女王エリザベス2世が8日、96歳で亡くなった。在位70年、それも「腐っても鯛」な老舗の大国、英国の元首となると、現在この地球上で生きている人間の大半が、彼女にまつわるなんらかの記憶を保持していると言っても大げさではないだろう。その死への反応は、国葬どころか、いわば「世界葬」といった様相を呈している。
さて、エリザベス女王の功績を讃える際によく聞かれるのが、「開かれた王室」「国民に寄り添う」というフレーズだ。「開かれて」いて「寄り添う」というのは、今やあらゆる立場の人間、サーヴィスに当然のように求められる資質となった。女王の生涯にそうした精神の表れを示す例は枚挙にいとまがないわけだが、しかしたとえば、The New York Timesの記事「女王を悼めども、帝国を悼むまじ」(Mourn the Queen, Not Her Empire 2022/9/8)では、功績の「光」の裏にある「影」──たとえば、植民地での暴虐を詳述した「不都合な」文書が、長らく隠蔽もしくは破棄されていたことなど──にも触れている。さらには、会期中に毎週催されるという女王 vs 首相のバッキンガム宮殿でのタイマン、もとい、会談で話された内容は、「ブラックボックス」とされるのが掟であったことも。「私がこの世で信頼する人間は二人だけ。一人は妻、もう一人は女王」と言った首相もいたとかいなかったとか。ともあれそこは、当然ながら、「開かれた」どころか機密だらけの場でもあったに違いない。
■女王は「英国民に寄り添った」のか
思えば、女王が国民に対してガッツリ「開かれ」て「寄り添った」のは、公式訪問、オリンピックやコロナといった、あくまでも公の行事や有事に際して(のみ)であった。例の「メグジット」(※20年1月、サセックス公爵夫妻が英国王室の主要メンバーから退くことをSNSで発表)のときは、迅速な初動に続いて、本音は極力抑えたと思しき(京都人的)大人な文書(「悲しおすけど、おふたりさんこれからの幸せを願うてます(大意)」)の発表のみという無駄のなさ。その内実について、女王本人がさらに何かをほのめかすようなことはない。ダイアナ妃のときも、国民から「冷たい」と言われてやっとの追悼演説。まあチャールズも「たいがい」だが、やたら偶像化されていたダイアナについても、内心、言いたいこと山ほどあったんだろうな、と想像される。