湯原昌幸さんが今もクリフ・リチャード「ダイナマイト」を歌い続ける理由
湯原昌幸さん(歌手・77歳)
歌に司会にバラエティーとマルチな活動を続ける湯原昌幸さん。かつてチャート1位を記録した「雨のバラード」は120万枚を売り上げる大ヒットに。先週には芸歴60周年のメモリアル曲「たそがれロマン」をリリース。歌手人生で影響を受け、今も歌い続けているのはクリフ・リチャードの「ダイナマイト」。
■曲の世界観が一緒だった英国のプレスリー
最初にこの世界に入るきっかけになったのはオーディション番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」(日本テレビ系)に出たことです。「スター誕生」の前にできたスカウトで歌手になることができる、先駆けのような番組でした。
当時は飯田久彦さんらによるロカビリーが人気でしたが、その流れが終わって、飯田さんもオリジナルの曲を出したりしていました。ロカビリーをやっていた人たちがソロシンガーとして歌謡曲なんかを歌い始めた時期です。さらにいえば、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家が出始めたころでした。
僕は学生時代から新宿にあったアシベとかで新人コンテスト荒らしをやっていましてね。ハワイアン、ロカビリー、それからカスケーズの「悲しき雨音」みたいなポップな曲や、クリフ・リチャードの「ダイナマイト」のようなロックンロールが好きで、よく歌っていました。とくに「ダイナマイト」は僕に合っていると思ったので、ポータブルの小さなプレーヤーで、買ってきたレコードを擦り切れるまで何度も何度も聴いて覚えました。
「ホイホイ」はあらかじめ3人の参加者が決められスクールの新入生として入って歌を歌い、それを見た視聴者がハガキで投票し、票が多い人をプロダクションがスカウトするという番組でした。バックでバンドをやっていたのはまだメンバーが固まる前のドリフターズでドラムを叩いていたのは加藤茶さんだった。
僕が番組に出た時は後ろに2、3メートルもある「湯原昌幸」と書いたでっかい発泡スチロールの看板みたいなものまで作ってあって、その前で歌ったわけだけど、その時に選んだ曲が「ダイナマイト」。もちろん、テレビで初めて歌った曲ということにもなります。
その結果、めでたく渡辺プロダクションにスカウトされました。ただ所属したのはナベプロではなく、東洋企画というところに横流しみたいに移行させられました。そして、銀座のアシベで歌って勉強しなさいと。銀座アシベは東洋企画の本拠地でしたからね。東洋企画はホリプロの創業者、堀威夫さんが設立した会社です。堀さんは多くのミュージシャンを輩出したバンド「スウィング・ウエスト」も結成した人でした。僕も勉強のつもりで、バンドボーイ兼平尾昌晃さんの前歌をやりながら、レコード会社のテストを受け、デビューできるか返事を待つ日々でした。
でも、スウィング・ウエストは堀さんが一度解散し、その後、メンバーが入れ替わる中で時代も急に変わっちゃってね。ビートルズやベンチャーズが出てきて、日本はグループサウンズ一色になるわけです。それでスウィング・ウエストもGSみたいにしようということになって、「雨のバラード」を作曲したバンマスの植田嘉靖さんが寄せ集めでバンドをやったりしてたんです。僕はいや応なしに「おまえ、ボーカルな」って言われ、ボーカルを担当していました。