北野武『首』 織田信長の「狂気」はパワハラ上司に苦しむサラリーマンにこそ見て欲しい
「首」(2023年/北野武監督)
「残酷すぎる」「気持ち悪い」「ストーリーにまとまりがない」「何を言いたいのか分からない」――と厳しい評価を受けているのが北野武監督(写真)の時代劇映画「首」だ。製作費15億円を投じた大作である。
天下統一を掲げる織田信長(加瀬亮)は毛利、武田、上杉らと激しい戦いを繰り広げていた。その最中、家臣の荒木村重(遠藤憲一)が反乱を起こして姿を消す。信長は羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)ら家臣を一堂に集め、自身の跡目相続をエサに村重の捜索を命じる。村重は捕らえられ、千利休から光秀に引き渡されるが、光秀は村重を殺さず匿う。
秀吉は抜け忍の曽呂利新左衛門(木村祐一)に村重を探すよう指示。騒動に乗じて信長と光秀を陥れ、天下取りをもくろむのだった……。
信長、秀吉、家康の三英傑が健在の戦国時代。謀反を起こした村重の正妻から側室、子供に至るまでがことごとく斬首される。この残酷描写を皮切りに血なまぐさい映像が次々と繰り出される。デリケートな女性は劇場で顔をそむけただろう。
しかも村重と光秀が同性愛のディープな関係で、そこに信長も光秀に恋慕していたという三角関係が重なる。いや、森蘭丸の尻を攻める場面もあるから四角関係か。いずれにせよ戦国武将がグロテスクに絡み合う群像劇だ。
村重と光秀の肉体関係は北野監督の創作だ。村重が殺害される展開も事実ではない。信長が家臣団に跡目を譲ると宣言したことや、本能寺で信長の首を落としたのが黒人の弥助だったというくだりも含めて、クエンティン・タランティーノ監督を模索するかのように史実を歪めている。というより北野監督はコメディアンの本領発揮で作り話を楽しんでいるのだろう。
たしかに本作は物語のメインテーマが見えにくい。日本史をよく知らない外国人はチンプンカンだったはずだ。
しかし見どころはある。筆者はけっこう楽しめた。理由は加瀬亮が演じた信長の狂気のキャラだ。刀に刺した饅頭を村重に食べさせたのは現代に伝わる逸話だが、血が出るほど口内を傷つけたという話は聞かない。だが北野監督の手にかかると、他人の苦痛と出血を楽しむ超サディストの信長が現出する。
光秀も無傷ではない。家臣団が見守る中で信長は彼を言葉でいたぶり、足蹴にする。まさに外道。狂った独裁者である。
「信長嫌い」という言葉がある。比叡山を焼き討ちにし、一向一揆を虐殺、妹お市の息子万福丸を串刺しにした信長の残虐ぶりを不快とする考え方だ。実は筆者も同じ思いだ。信長は戦国時代のヒトラーと言っていい。
加瀬亮は精神を侵されたかのように光秀らをもてあそぶ。その姿を他の家臣たちは黙って見ている。彼らに与えられたのは沈黙と忍耐しかない。一言でも諫めれば信長の憎しみが自分に向かってくることが分かっているからだ。信長は誰もが意見できない魔王として君臨しているのである。
映像から読み取れるのは家臣たちのそれぞれが「信長は狂っている」「死んでもらいたい」と恐怖と憎しみを抱いている様子だ。何を隠そう、草履取りからのし上がった秀吉ですら「信長の野郎」と憤懣(ふんまん)を抱え、それゆえ光秀を焚きつけて本能寺に突入させる。光秀はまんまと罠にはまった。ご存じのように彼は山崎の合戦で秀吉の猛攻撃に屈し、農民の竹槍に命を奪われた。
この映像作品からは狂人信長を中心にした戦国の男たちの緊張感がびんびんに伝わってくる。「誰かが信長を殺してくれたら楽になれる。だけど俺はやりたくない」という絶望の中でもがいている。猫の首に鈴をつけられない。それが作中の男たちの哀れで無様な姿だ。その中で狡猾に立ち回った秀吉は、古参の家臣団の誰よりも一枚上手だった。
そこで本稿の主題だ。筆者の目には信長に支配される家臣団が上司や経営者のパワハラに蹂躙される我らサラリーマンと重なって見える。横暴な上役から人格否定の言葉の暴力を受けた。嫌がらせとして死ぬほど働かされた。人が見ているところで殴られた--。こうした経験をした人は少なくないはずだ。「死んでくれればいいのに」は現代の我々にも降りかかってくる災難なのである。
話は少し逸れるが以前、経営コンサルタントからこんな話を聞いた。中堅企業の経営者で学歴コンプレックスを抱えた社長は東大卒などの高学歴者を社員に召し抱えたがるそうだ。彼らはインテリのエリートを従えることで自分のコンプレックスを払拭しようとする。だからはライバル企業の経営者などに「弊社には東大卒の社員がいましてね」と自慢する。
ところがこの東大卒のインテリが実力を発揮して仕事をバリバリこなし、自分に意見するようになると気持ちが揺らいでくる。可愛さ余って憎さ百倍。いびつな学歴コンプレックスが蘇り、その矛先がくだんの東大卒に向かう。
「あいつ高学歴を鼻にかけて俺をバカにしていやがる。いや俺を軽蔑しているのだ」
結果どうなるかは説明の必要もない。社長は東大卒をいびり始める。いびられた側はさっさと退職する。残ったのは代り映えしないイエスマンの社員ばかり。とどのつまりはまた元の人員構成に戻るわけだ。かくして社長は「これで清々(せいせい)した」と再び古参の側近たちを重用するようになる。
経営コンサルタントによると、こんな喜劇があちこちで繰り広げられているそうだ。室町の礼式に通じる知識人の光秀を重用しながらも冷遇した信長の姿と重なりはしないだろうか。
「首」はまとまりの弱いストーリーだが、イエスマンの秀吉が心の底から信長を憎み、その死を望んでいたという発想を根底に据えている点も興味深い。彼が信長の遺児たちを冷遇した実績を見れば、あながち嘘とも思えない。我らサラリーマンは横暴社長やサディスト上司を憎みながら加瀬亮の演技を味わえばいい。
さて秀吉は光秀をそそのかして信長を始末した。この手法は現代のサラリーマンにも有効だろう。本稿の読者が社内で踊らせるのは仲の良い同僚だろうか、それともおだてられて舞い上がる先輩社員か。あるいは読者自身が踊らされて破滅するのだろうか。
(文=森田健司)