俳優・永瀬正敏「俳優は作品を通して被災者に寄り添う」東日本大震災がテーマの映画『いきもののきろく』が11年ぶり全国公開
セリフで説明するより想像力に委ねたい
──震災後に東北に行ったのはどうして?
当時、メキシコの映画監督がプロデューサーで、世界6カ国の監督が短編映画を競作し、それをオムニバスとして一本にまとめる企画があり、その1本を岩手県で撮ったんです。被災したばかりなのに、そこで映画を撮るのはためらいがありましたが、中田秀夫監督は震災直後から現地入りして、現地の方とコミュニケーションを取り、「今この瞬間を残さなければいけない」という熱意に突き動かされていました。僕が撮影で伺ったのは岩手の山田町で、もう唖然としてしまって……。皆さん今後の教訓としても今のこの現状をなんらかの形で残して、次、またその次の世代の人たちにも伝えてほしい、忘れ去られるのが嫌だ、とおっしゃっていて。そこで出会った古老が「ガレキ撤去、ガレキ撤去って言うけど、わしらにとってはみんな生活の一部だったんだ」という言葉が胸に突き刺さりました。今でも何人かの町の方たちとは交流があります。残念ながら日本での公開はなく、僕もほかの監督の映像は見ていません。これもいつか公開されるといいですね。
──今回の映画はモノクロで一部を除いて無声映画ですが。ライフワークにしている写真と重なる部分があるのでは?
そうですね、それもあるかもしれません。余計な色をそぎ落としたモノクロ映像ですから、見る人がさまざまな色を想像して頭の中で着色してもらえればありがたいです。モノクロ映像も実はとても奥が深いですし。相手役のミズモトカナコさんとの会話は一部、字幕で出ますが、セリフはほとんどない。見る方の自由な想像力に委ねたいということがあります。観客がそれぞれ言葉を想像してくれたらいいと思います。僕が唯一“オヤジ”と呼ぶのはデビュー作「ションベン・ライダー」の相米慎二監督ですが、監督は「水の監督」といわれるほど、水に対する偏愛が強い方で、「ションベン・ライダー」はもとより「魚影の群れ」「台風クラブ」「ラブホテル」など大量の水が出てきて、セリフよりも唐突ともいえる「川・海・雨」によって物語が展開するんです。僕も説明過剰なセリフより、見る方の想像力に委ねたいですね。
■休みの日には息子みたいな愛猫とずっと一緒
──俳優の傍ら、プロの写真家としても活躍していますが。
祖父が写真館を経営していた影響が大きいです。戦後、祖父は食糧と引き換えに、後で買い戻す約束で知人に大事なカメラを渡してしまい、それっきりになってしまったそうで。祖父はそれ以来、カメラを手にすることはなかった。廃業せざるを得なくなったんです。祖父が亡くなった後、田舎の倉庫から祖父が撮ったモノクロの写真と種板(感光板)、研究ノートが出てきたんです。当時、日本では数少ない写真師のお一人に住み込みで奉公しながら写真技術を学んだらしいですが、それだけでは難しかったんでしょう。自分で分からないことは何度もトライしてみて解決するしかなかった。研究ノートには北米と欧州でのレタッチの違いなど撮影やその後の処理のことなどたくさんのことが細かく記されていました。祖父がそのままカメラを持つことができていたらどんな写真を撮っただろう。僕は祖父の代わりにシャッターを切っているのかもしれないと時々思います。
──オフの日は?
ほとんど外出しないで部屋でテレビのドキュメンタリーを見たりしています。猫と一緒なのですが、18歳と高齢で。猫は夜行性と聞いたことがあるのですが、彼も昼に寝ていて、僕が寝ようとする夜になると元気になって構ってもらおうとするんです。仕事の時は一人っきりにしてしまうので、できるだけ彼との時間を増やしたいと。僕にとってもう息子みたい。癒やされています。
──14年目の3.11に思うことは?
俳優って何だろう……と。本業としては何の役にも立たないじゃないですか。ミュージシャンならギター一本で歌って、その場で皆さんを励ますこともできるけど。俳優業としては即効性がないというか。結局、僕は映画という作品を通して何かを残し、時間をかけて被災者の方々に寄り添うことしかできないんじゃないか。その思いが形になったのがこの映画です。多くの人に見てほしいですね。
(聞き手=山田勝仁)
▽永瀬正敏(ながせ・まさとし) 1966年生まれ。宮崎県出身。16歳の時、相米慎二監督「ションベン・ライダー」(83年)でデビュー。ジム・ジャームッシュ監督「ミステリー・トレイン」(89年)で注目を浴びる。映画「息子」(91年)で日本アカデミー賞、ブルーリボン賞で助演男優賞を、毎日映画コンクール、報知映画賞で主演男優賞をそれぞれ受賞。