米国で半年間ホームレス…園子温監督が振り返る“極貧時代”
だから、食うには困らなかったけど、いいところに住みたい気持ちはサラサラなくて、荻窪とか高円寺とか中央線沿線の風呂・トイレなし、木造2階建ての古い、月1万5000~2万円のアパートに住んでました。
でも、その頃はまだ幸せ。38歳の時、どうせなら16ミリの映画用のカメラを買えば、好きなようにいくらでも映画が作れると思って、貯金をはたいて150万円で中古のカメラを買ったんです。ある晩、そのカメラのバッテリーをコンセントに差し込み、充電しながら眠ったら、目が覚めたら天井に真っ黒な雲が立ち込めてて……。バッテリーから出火していた。部屋は全焼。“映画の神様がいるなら、自分にはついてないんだ”と最悪な気分でした。
このままじゃいかんと、文化庁新進芸術家在外研修員として、アメリカに行ったんです。文化庁から出るおカネを恋人に託し、定期的に送ってもらおうとしたけど、彼女と仲が悪くなって、途中から途絶えちゃった。それで、そのままサンフランシスコでホームレス生活に。その時が一番、貧乏でしたね。
幸い、サンフランシスコは天気が安定してて暑くも寒くもない。ユースホステルのラウンジに紛れ込んで、日本人をつかまえて「面白い話をしてやるから、ちょっと食わせろ」って言って食わせてもらって。危険? 路上にはヤク中の人もいたけど、仲良くしてたから。オレの方こそ危険な部類でしたよ。