くも膜下出血から完全復活 米良美一が貫く「生への執着」
ランドセルを背負う夢はかなわず、自宅から離れた寄宿舎の養護学校に預けられ、高校卒業まで周囲と遮断された環境での生活を余儀なくされた。中学時代はほとんど車いす。小6から中1が特につらく、側彎症で背が曲がって動かず、寝返りも打てずに、節々に折れるような激痛が走って、外出もできなかった。だが先天性骨形成不全症は、思春期を過ぎると症状が落ち着く。骨折は15歳で終わった。
■難病の過去を封印した“美学”
歌手を目指したのは、松田聖子に憧れた中学時代。アイドルへの夢は断念したが、芸能界への憧れは残った。高校2年のころ、音楽の先生の勧めで声楽を習い、わずか3カ月後に宮崎県独唱独奏コンクールで銀賞に輝く。翌年は金賞を受賞。90年、洗足学園音楽大学に進学すると、先天性骨形成不全症だった過去を封印すると決意。あるインタビューで「ハンディを告白すれば、早く注目されたでしょうが、そういうやり方には『美』を感じませんでした」と語っている。音楽家としての美学も芽生えていた。
音大3年の時にテノールから、カウンターテナーに転向。きっかけは太く重いテノールのせいで、高声を出すのに疲れたから。もともとは男声だが、女声のアルトからメゾソプラノ、ソプラノといった高い音域までこなすカウンターテナーは日本では、まだ2人しかいない。通常は、バロックやルネサンス期の曲が主なレパートリーだが、日本の歌にこだわり、96年には日本歌曲を集めたCD「母の唄」を発表。同年オランダ政府給費留学生としてアムステルダム音楽院に入学。97年、映画「もののけ姫」の主題歌を担当し、圧倒的な人気を博したのは周知の通りだ。
「カウンターテナーよりエンターテイナーです」とよく本人が語っているが、試練の時を経て天使の歌声が戻ってきた。