“経験ゼロ”の大林宣彦監督はなぜ商業映画デビューできた?
大林宣彦監督が亡くなって、一週間が過ぎた。この間、多くの報道が出て、今もその功績が多方面から論じられている。
CMクリエーター、自主映画作家を経て、いきなり商業映画に進出した稀有な経歴をもつ監督である。近年では反戦の意志に貫かれた独自の境地にたどりつき、「反戦の映画監督・大林宣彦」としての評価も高い。それに異論はないが、少し視点を変えて、日本映画界における監督の立ち位置について触れてみたい。
そもそも映画現場の経験のない大林監督が、なぜ商業映画デビューを飾ることができたのか。ここは監督のみならず、日本映画史にとっても、とても重要な意味をもつ。商業映画デビューは、ホラー・ファンタジーともいえる「HOUSE ハウス」(東宝配給、1977年)だ。筆者は、この作品を公開年の一般試写会で見たが、アニメーションも駆使した手の込んだきらびやかな映像のつるべ打ちに、唖然とした記憶がある。実験映画的なホラー・エッセンスに大場久美子をはじめとする女優陣のアイドル映画的な側面もあり、それまで見たことのない“商業映画”であった。
当時の映画界は、非常にひっ迫としている状況だった。なかでも東宝は1970年代はじめに自社製作を打ち切り、いわゆる製作分離を行っている。外部委託する製作プロダクション化の道だ。製作にかかる経費の削減であり、それだけ、危機感が高かった。
■東宝・松岡功名誉会長の存在
1973年には「日本沈没」を大ヒットさせるなど大作への方向性はできたが、個別の作品のヒットは少なかった。人気シリーズは低迷し、日活などから外部監督を起用していくのだが、それも限界があった。このような状況下で東宝の経営に大きな役割を担い始めていたのが、現名誉会長で、当時、製作や営業の手綱を握っていた松岡功氏だった。
大林監督の代表作である「転校生」(1982年)など8本の大林作品をプロデュースし、東宝にも在籍していたことがある森岡道夫氏が言う。
「松岡さんは海外での勤務歴が長く、日本の映画界の当時の惨状にかなり衝撃を受けていたと聞きます。東宝を何とかしないといけないとの思いが強かった。だから、映画界以外からも、新しい才能を求めていたんだと思います」
森岡氏は語らなかったが、なかなか状況を打破できない社員監督や契約監督に失望していたこともあったかもしれない。
「大林監督はCM界ではすでにかなり知られていました。チャールズ・ブロンソンやソフィア・ローレンなど、海外の有名俳優を起用して多くのCMを作っていた実績も、松岡さんが新鮮に感じた部分のような気がします」(前出の森岡氏)。
時の映画界は斜陽のさらなる先へまっしぐらの厳しい時代だったとはいえ、まだまだ助監督から監督という“出世コース”は厳然とあった。映画現場を経験してきた助監督ではなく、映画界以外の人が、いきなり監督デビューというのは稀なことである。
大林監督は、それをやってのけた。東宝の事情と「ハウス」映画化に向けた熱意、加えてCM界だけではない監督の人脈の幅広さ、フランクな人柄もあったのではないかと推測する。
映画界に風穴を開けた
この大抜擢は以降、自主映画畑や外部異業種からの商業映画への監督起用という映画界の流れにつながっていく。商業映画における映画製作システムと質的側面の双方において、風穴を開けたのが「ハウス」であり、大林監督だったのだ。
森岡氏は、監督のことを「映像作家」だったと言う。この発言は非常に重要で日本の商業映画の風穴を開けたものの、究極的には個人のさまざまな思いや創作の原点ともいえる技術力を画面に投影していく個人映画的な側面が、彼の本質だったことを表す言葉だからである。
個人映画から商業映画への道をたどり、再び個人映画的な作風に身を委ねていき、そこで反戦への姿勢が研ぎ澄まされていく。そのような監督の道筋が見えてくる。本当にダイナミックな映画人生だったと思う。多くの映画を本当にありがとうございました、監督。あ、監督になってしまった。口頭で、映像作家、とは言えませんよ、監督。
(映画ジャーナリスト・大高宏雄)