松崎しげるさん プリーズ・プリーズ・ミーのB面にシビレた
退学覚悟で2日間通った武道館来日公演
ビートルズの日本武道館公演は、2日間とも行きました。1966年だから、高校2年かな。今の芸能人で、当時、見に行った人は少ないんじゃないかな。
学校(日大一高)からは行ったら退学だと言われていたんです。武道館で初めて武道以外の、しかもロックの公演でしょ。「長髪の外人のわけのわからない音楽をやるんじゃない!」と怒った大人が多かった。街中で「ビートルズは帰れー!」と怒鳴ってる人もいたし、テレビの時事放談では政治評論家が「ビートルズなんて音楽じゃねえ!」と言ってたから、もう国中が大騒ぎ。
うちの学校は武道館まで目と鼻の先だったから、行ったとわかれば、退学になる。そんな時代でしたよ。僕は先生の目をくぐって行きましたけど(笑い)。
ビートルズが出てきたら、周りの女の子の叫び声がうるさくて、まったく演奏が聴こえなかったです(笑い)。「うるせえ! 静かにしろ!」と何十回怒鳴ったか。
初めて武道館で音楽公演をやったわけだから、あの広さなのに、今みたいにちゃんとPA(音響装置)があるわけじゃないんです。テレビの懐かし映像とかでビートルズ公演を見た方はいると思うけど、マイクスタンドがグラグラ揺れてて、メンバーが笑いながらマイクの周りを動いてる様子を今も覚えてます。マイクスタンドの立て方さえわからなかった時代だったんですね。
僕は68、69年にバンドを組んでいて、ビートルズのコピーもやりました。大人の音楽もやっていたかな。グループサウンズ全盛の時代だから、まったく売れなかったですよ。そのバンドのマネジャーが宇崎竜童さん。2年間マネジャーしてくれていたんです。
■バンドのメンバーがその後の「ガロ」のトミーとマーク
ビートルズが解散した70年に、僕はソロデビュー。僕が抜けた後、メンバーだったトミー(日高富明)とマーク(堀内護)が「ガロ」を作った。新しくボーカルを入れてね。
若い頃に「音楽でメシ食っていこう」と話してバンドやったメンバーが、音楽でメシが食っていけたのがうれしい。2人とも同級生なのに、亡くなってしまいましたけどね。
ソロになってからはまたナット・キング・コールを意識しました。「ああいうボーカリストになりたい」と。その頃に人気のトム・ジョーンズの影響も大きくて、バンドのボーカルではなく、オーケストラをバックに歌う歌手を目指しました。
77年「愛のメモリー」を発売。この歌をスペインのマジョルカ島の音楽祭で、オーケストラで歌った時、「こういう音楽が自分にはいいだろうな」と感じました。「スターダスト」はコンサートでもたまに歌います。
でも、今でも、ビートルズマニアですよ。聴けば、学生時代に戻れるし、自分の原点はここにあると思えます。
去年の11月で70歳になり、今年は芸能生活50周年。ガンガン歌っていきたい。目に見えない敵(新型コロナ)にはどうしようもないけど、今は若いアーティストと「どうしよう、どうしよう」と話しています。話せば悩み解消にもなるじゃないですか(笑い)。
▽まつざき・しげる 1949年11月、東京都出身。日大芸術学部卒。70年にソロ歌手としてデビュー。77年に「愛のメモリー」が大ヒット。ドラマなど幅広く活躍。