沖縄民謡を歌う古謝美佐子さん 2度の転機とヤマトンチュと
「黒い雨」初代桜川唯丸
「私、標準語の歌詞の曲は、何度歌っても〈心の中に入ってこない〉のです。方言で歌う(沖縄の)島唄は、すぐに覚えられるのですが……。使い慣れていない言葉では心を込めて歌えません」
1954年、沖縄県嘉手納町に生まれた。基地の街で沖縄民謡を子守歌にしながら育ち、幼稚園に入る前には舞台に立っていた。9歳でレコードデビュー。沖縄を代表する民謡歌手として名前は広く知られている。
「2歳になる前に叔母に手を引かれ、テント小屋で上演される沖縄芝居を見ていたそうです。歌もセリフも覚え、人前で歌うのが大好きな子供だったそうです。幼稚園に入る前に舞台を経験しましたから……歌手歴は60年くらいになります」
沖縄民謡の歌手は、長く伸ばした髪を結って琉装ヘアにして歌う。その長い髪を一度だけ切ったことがある。高校卒業後に結婚。夫から「専業主婦になってくれ」と言われ、覚悟を決めて髪を切って歌から離れた。しかし、1年後には三線の音を聞いただけで胸がざわつき、居ても立ってもいられなくなって、再び歌うことになった。
■坂本龍一さんからのオファーでツアー参加まで
30歳で離婚。32歳(86年)のときに最初の大きな転機を迎えた。
「名前も聞いたことのない『坂本龍一という音楽家が沖縄民謡の女性歌手を探している』と音楽仲間から誘われて『東京で1曲だけレコーディングするだけ』ということで参加しました。沖縄に戻ると坂本さんから『もう1曲、歌ってくれませんか?』と言われ、国内ツアーに参加しました」
「この体験が、私にとって大きな変化となりました。実はヤマトンチュ(本土の人)に偏見を持っていました。戦争を体験した親から『ヤマトンチュは口がうまくてウチナー(沖縄の人)をだます』と刷り込まれていたのです。標準語の民謡も『ヤマトンチュに媚びへつらいたくない』と歌わなかったくらい。でも偏見だったことに気付かされました。坂本さんと一緒に仕事をして『ヤマトンチュも私たちと同じ人間なんだ』と30歳を過ぎてからですが、ようやく分かったのです」
90年に知名定男プロデューサー、佐原一哉サウンドプロデューサーが主導して結成された沖縄ポップスグループ「ネーネーズ」にリーダーとして参加。デビューアルバム「IKAWU」(91年)が大反響を呼び、翌92年には大手レーベルからメジャーデビュー。通算6枚のアルバムなどを発表。
国内外で多くのライブをこなしたが、95年12月に脱退して、佐原一哉とソロ活動を開始する。
「自分の好きな曲を歌いたいという思いを断ちがたく、原点に戻ってウチナー(沖縄)の曲を歌おうと決意したのです。私、沖縄民謡の中でも〈情き歌〉が大好き。慣れ親しんだ沖縄歌劇の影響もあって〈男女の情愛〉〈親子の愛情〉を表現する情き歌を歌いたかった。ネーネーズを脱退し、小さなライブから再スタートを切りました」
97年、初孫の誕生を前に、古謝美佐子が詞を書き、佐原一哉が曲をつけた「童神」をリリースした。
天(てぃん)からの恵み
生まりたる産子(なしぐわ)
イラヨーヘイ
イラーヨホイ イラヨー
愛(かな)し思産子(うみなしぐわ)
泣くなよーや
ヘイヨー ヘイヨー
太陽(てぃだ)ぬ光受きてぃ
ゆいりよーや
ヘイヨー ヘイヨー
勝(まさ)さあてぃ給(たぼ)り
沖縄発の新時代の子守歌として脚光を浴びて夏川りみ、山本潤子、加藤登紀子らがカバー。2001年のNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」の挿入歌にもなった。情感あふれる歌詞を流麗なメロディーに乗せ、エモーショナルに歌い上げる古謝美佐子の真骨頂だ。
「母親になるワタシの娘への思い、厳しく育ててくれた母親への気持ちとか、いろいろな思いが曲に込められています」