飯野矢住代誕生秘話<6>ジャニーズ事務所の女性所属タレント第1号に
1961年の夏、神宮外苑で模型飛行機を飛ばして遊んでいた少年たちに一人の男が声をかけた。「野球をやろうよ」。程なくして即席の草野球チームが結成された。チーム名は監督の名前から採って「ジャニーズ」と名付けられた。
代々木のワシントンハイツに住むジャニー喜多川は当時29歳。米国籍の日系2世で、朝鮮戦争に従軍したのち、除隊後のこの時期、アメリカ大使館に勤務していた。
ジャニーは野球ばかりでなく、少年たちを映画に連れて行ったり、公園で踊らせてみたりした。「ひょっとしたら、いけるかもしれない」と思ったジャニーは、4歳上の姉で、四谷でバーを経営していたメリー喜多川に少年たちを引き合わせた。メリーは友人の夫で、名和新芸能学院を主宰する名和太郎に少年たちのレッスンを託し、翌年アイドルグループ「ジャニーズ」が誕生する。姉弟が芸能ビジネスに参画したのは彼らのマネジメントがきっかけである。
64年6月には、渡辺プロダクションの傘下に移り、ジャニーズ事務所を創設。ジャニーズは「夢であいましょう」「若い季節」(NHK)、「明日があるさ」「ホイホイ・ミュージック・スクール」(日本テレビ系)などのレギュラー番組を抱え、一躍人気者となった。当時の“ナベプロ”の威光の大きさもあった。