堀江しのぶ死後…内情は火の車だった村西とおると野田社長
「あのころはダイヤモンド映像だってヒット作もなくて極貧でしたからね。明日の制作費ないぞ、という状態ですよ」
日比野正明監督が回想する。
謹慎していた村西とおるは、もっぱら資金繰りに奔走していた。
AV監督になる以前、露出度の高い写真集、ビニール本(略してビニ本)の帝王と呼ばれていたころの仲間を伝って現金を集めたりしていた。世の中はバブルの真っ盛り、カネ余り時代であり、資金繰りはなんとかうまくいった。だが本業で儲けないことにはこの先、どうなるかわからない。それは野田義治にしても同じだった。
堀江しのぶ以上の逸材を発掘するんだ。
パワースポーツの新作プロデュースに追われながら、自身が経営する芸能プロダクション・イエローキャブで新人を探していた。
だがそう簡単に育成できるわけがない。
「野田さん、そのころ車で寝泊まりしてたんじゃないかな。とにかく働くのが大好きな人ですからね。あと、せっかち(笑い)。村西監督もせっかちだけど野田さんはもっと。カメラマンの山岸伸さんの事務所に用事で行ったら、野田さんが出てきたんで、“野田さーん”って呼んだら、1秒でもう車発進してた(笑い)」