「オリジナル版 さっちん」荒木経惟著
なぜ幻かというと、本作は東京オリンピックがあった1964年に平凡社の第1回「太陽賞」を受賞、その後、受賞作が雑誌のグラビアに掲載されたのだが、当時、編集部に渡したネガが返却されず、写真集が刊行されぬまま今日にいたっていたからだ。
残っていた受賞作以外のアウトテイクによる同名写真集が1990年代に刊行されたが、現代の印刷技術を駆使して当時の掲載雑誌から受賞作を蘇らせた本書が正真正銘のデビュー作の写真集ということになるのだ。
千葉大学工学部の学生だった若き日の著者は、実験が嫌で講義をサボっては街を歩いていたという。
そんな夏のある日、たまたま見つけた三河島の廃虚化した古いアパートに足を踏み入れると、真っ黒に日焼けした子供たちが汗だくで遊んでいた。その中の一人が「さっちん」こと、小学4年生だった星野幸夫君だった。見慣れぬ闖入者にパチンコを向けてきたさっちんは、慌てた著者の姿を見て大笑い。パチンコにタマは入っていなかったのだ。著者はいっぺんでこの少年が好きになり、1年かけて彼と彼の仲間たちの姿を追ったドキュメンタリーが本作となって結実した。
著者にパチンコを向けたように、冒頭から鼻の穴に指を突っ込んだ変顔のさっちんが読者を歓迎してくれる。
ドッジボールや馬跳びなど、夢中になって遊ぶ姿をカメラは追う。今ではあまり見られなくなったが、男の子も女の子も一緒、そしてさっちんの弟のマー坊など、年齢もそれぞれ異なる子供たちが一団となって、とてつもなく楽しそうに遊んでいる。
「くにちゃん ぼくが好きなんだってさ」と得意げな顔で女の子とのツーショットに納まったかと思えば、何か気に食わないことがあったのか、怒りを爆発させるマー坊をなだめたり、ピッチャーじゃなきゃやらないよと仲間にわがままを言ってみたり、仲間がいないときは落ちていたゴザを体に巻き付けて一人ファッションショーに興じたりと、画面からはさっちんの屈託のないあふれるばかりのエネルギーが伝わってくる。
ホースの切れ端を笛に見立てて、おどけてみせるそのシャツのポケットからのぞいているのはメンコだろうか。彼と同じ昭和の空気を吸って育った読者は、きっと思い出の中のもう一人の「さっちん」を思い浮かべ、見ているだけで愉快な気持ちになることだろう。
最後のページ、兄弟を迎えに来たと思われるお母さんの割烹着の白さが印象的だ。日常の一瞬に永遠の命を与える天才の原点に触れられるファン必携本。60代になっているはずのさっちんにもぜひ見てもらいたい。(河出書房新社 1600円+税)