ボブ・ディラン「風に吹かれて」の問いかけは現代に必要
彼らしいといえば彼らしい。歌で世界を塗り替え、現在に至る歌のあり方において彼ほど影響を及ぼした人はいない。それでも、「自分がやらなくても、誰かがやっていた」と、驕ることなく独自の道を歩み続けた。歌には、どんな規則もない、どんなことを歌ってもいい。大切なことだと思えば、世間が顔を背けるようなことでも平気で歌にした。
韻を踏ませ、暗喩を含ませ、文字通り「新たな詩的表現」で、歌に深みや広がりをもたらした。そうすることで、歌詞は詩となり、詩は歌になった。声に出し、唇にのせることで、書物の中に畏まっていた言葉たちを、リズムが躍る新しい世界へと導いた。
「風に吹かれて」は、反戦歌だから歓迎されたわけではない。ましてや、それが書かれた過去に縛られているわけでもない。「どれほど人が死んだら、余りにも死に過ぎたと気づくのだろう」。その問いかけを必要としているのは、むしろ、漠然とだが、心のどこかに不安や混乱を抱えざるをえないような現代ではないか。
「歌は軽い娯楽ではなく、もっと重要なものだった」。今回の授賞が、ディランと同じ志を共有しながら言葉と向き合い、歌い、演奏するようになった人たちに、どれほどの励みになったかと思う。時には、自らの醜さや卑しさに気づかされたりしながら、彼の歌とともに人生を歩み続けてきた人たちにとっても、むろん、それは同じことだ。