TOKIOで音楽活動できない状況は長瀬智也とって監獄だった
記者会見の対応ひとつで、30年続いたタレント生命も一瞬で絶たれることがある……と、ジャニーズ事務所関係者は強く肝に銘じたはずだ。
そこに端を発するのが長瀬智也の退所報道だ。だが、マネジャーとの独立や不仲なども取り沙汰されたSMAPらとは違い、理由はシンプルだ。
「長瀬智也は音楽がやりたい」のである。
長瀬の音楽への熱はすさまじいものがある。20歳の頃から、自分で楽曲を作り続けて約20年。自作曲のストックは500を超える。自宅のスタジオで音を作り込み、ギターはもちろん、機材のケーブルや電気のボルト数までこだわり、レコーディングエンジニア並みの知識量で、レコード会社のスタッフにも自ら指示を出す(※1)。
「アイドルって最初は何もわからないけど(中略)<自分はこれだな>ってものを見つけると、凄い覚悟でそれに向かっていくんです」(※2)と語る長瀬は、音楽という自分の生きる道を見つけて、覚悟を決めた人なのだ。
TOKIOは椎名林檎や中島みゆきに楽曲提供を受けていた時代を経て、13年以降はバンド内でコンペをして曲を選んで発売する形式を取ってきたが、研鑽の甲斐あってか長瀬の楽曲は採用率が高い。14年にはサマーソニックに出演して喝采を浴びるなど、バンドとしての評価が確立されてきたタイミングで起きたのが、山口の事件だった。