山口洋子は「波瀾万丈の3冠王」 権藤博は弔辞でそう述べた
山口洋子と中日ドラゴンズのエース、権藤博の長い春は、交際4年にして終幕を迎えつつあった。当時のことを山口洋子は、いくつかの媒体で振り返っている。作詞家としての活動が軌道に乗り始めた1970年には「中日球団の社長の横槍があった」(「婦人倶楽部」1970年2月号)と述べ、2度目の直木賞候補となった1984年には「相手の親族が賛成してくれなくて」(「週刊平凡」1984年8月24日号)と漏らしている。つまり「自分が夜の女だから、球団からも親族からも忌避された」という理屈である。
しかし、1997年に上梓した自伝では、それとはまったく異なる事情を書き残している。発端は花嫁修業のため銀座から離れていた洋子の元に「姫」の元ホステスが訪れたことにあった。用件は些細な恋愛相談だったというが、彼女が身に着けていた金のネックレスが洋子の心を乱した。自伝からひく。
《少し太めのチェーンの先についている同じ18金のメタル、私が愛しい男のために自分で買ったものを、どう見間違う筈がある。(中略)そういうと、このところ見ていない。どうしたのと何かの拍子に訊ねたら、鎖が切れたんだとかいっていた。切れたのは鎖じゃなくて、私との絆なのだ》(「ザ・ラスト・ワルツ『姫』という酒場」文春文庫)