「本名の白羽秀樹では出られない。ましてや“城哲也”では絶対出られない」
1966年4月11日、日本で初めてのキックボクシングの大会が開かれた。資金繰りに苦しんでいた野口修は、大阪のプロモーターに300万円で興行権を売っていた。それもあって記念すべき第1回の大会にもかかわらず、会場は東京ではなく大阪府立体育会館で行われた。
当初、この大会は大山倍達率いる極真空手と、老舗の実戦空手流派である日本拳法空手道の協力を得て行う計画だった。しかし、金銭面のもつれや感情の行き違いからいずれも交渉は決裂。主要選手の出場が白紙になってしまう。本来なら中止を決断するところだが、興行権を売ってしまっている以上、中止となれば300万円の弁済が発生するのはもちろん、膨大な違約金を負わねばならない。そこで野口修は、苦肉の策で無名の青年である白羽秀樹を抜擢する。派手な蹴り技は見栄えがいいし、俳優として舞台経験もある。人前に立つことに免疫があると野口は踏んだのだ。
とはいえ、プロ試合どころか、大会場もリングもすべて未知の経験である。当然白羽は、首肯しなかった。何度頼んでも答えは同じ。そこで野口は「頼む、俺を助けると思ってこの1回だけ出てくれ」と泣きついた。それが効いてか「だったら条件がある」と白羽は言った。