<5>親方の息子は出世しないといわれているのを知らずに力士の道へ
今回はうちの話をしたいと思います。
親父の先代増位山(大志郎)は兵庫生まれで貧乏だから、大阪の米屋に奉公に出て相撲の世界に入り、大関になった人ですが、僕の一家はおふくろの祖父も力士なので僕は4代目です。親父が大関、おふくろの親父は大阪相撲で関脇までいった玉の森、その親の3人兄弟も力士という力士一家です。
福男の裸祭りで有名な岡山の西大寺には玉の森の碑も残っています。お寺が火事になった時に祖父が釣り鐘をおろして燃えないようにしたというので建立されたそうです。西大寺には資料も残っていて、おふくろの祖父、僕にとっての曽祖父は新選組とも闘ったと出ています。
おふくろは陸上をやっていた人で、日本人女性として陸上で初めて銀メダルを獲得した人見絹枝さんに、岡山つながりでコーチしてもらっていたそうです。運動能力が高かったんですね。
ダメならちゃんこ屋でもやらせるか
ただ、女は力士にはなれないから、親父と結婚し、次は僕がならないと力士の家系が途絶える。
親父としては男の子が生まれて、やる気があるなら力士になればいい、やってもせいぜい幕下までだろうから、やめてからちゃんこ屋でもやらせるか、くらいに僕のことは思っていたみたいですが。
というのも、当時、親方の子供が何人も力士になっていましたが、意外なことに十両以上になった人は一人もいなかったんですよ。上がっても番付は幕下まで。親方の息子は出世しないというジンクスまでありましたから。
ただ、おふくろは中途半端なことは嫌いなので、ちゃんと上まで育て上げる気がないなら、反対すると言って譲りませんでした。
中学、高校は日大一中、日大一高で水泳をやっていました。親父は帰宅してへたばって寝ている姿を見て、部活くらいでこれじゃ力士はとても務まらないと思ったようです。
■決め手は先輩のアドバイス
でも、僕は何の疑問も持たずに、横綱になろうと相撲の稽古もやっていました。冬の連合稽古とか、幕下の稽古に飛び入りしたりして。
当時は身長182センチ、体重も75キロくらいあって大きい方だったので、自分なりに力士になる自信もありました。親方の息子で十両以上になった人がいないなんて知らなかったし。
一中、一高から明大に進んだ水泳部の先輩から「うちに来ないか」という誘いもありました。僕は先輩にはお世話になったし、義理もあるからと悩みましたが、若くして骨肉腫で亡くなった2年上の先輩から「自分の好きな道に進んだ方がいいよ」とアドバイスされ、「やっぱり力士になる」と決めました。
同じそろばん塾に通ったり、よく遊んでいた友達に、大関から前頭まで落ちて2度目の敢闘賞を受賞し、「涙の敢闘賞」と言われた名寄岩さんの息子さんがいます。彼は僕より1年上で早稲田実業から銀行員になった人ですが、僕が相撲をやっていることを知って、すごく羨ましがっていましたね。=つづく
(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)