日本の伝記映画に“新しい波”…「あちらにいる鬼」「天上の花」など作家を通して女性を描く
女性が作家や詩人を踏み台に新たな人生へと泳ぎ出す
「あちらにいる鬼」の井上光晴には全国に愛人がいて、妻や寂聴にほかの女の存在がばれても悪びれるところがない。「天上の花」の三好達治(東出昌大)は、自分が思い描く女のイメージに妻の慶子(入山法子)を当てはめようとして、彼女がそれに反発すると暴力を振るう。井上も三好も通常の倫理からみれば破綻しているが、井上は“愛の自由”を、三好は“純愛ゆえの束縛”を理屈にして女たちと気ままに接する。
そんな彼らがしっぺ返しを食らうのが今回の映画で、瀬戸内寂聴は井上への愛から逃れるために51歳で出家を決意するし、三好の束縛に耐え切れなくなった慶子は顔が変形するほど殴られたのちに、彼から離婚の了承を取り付ける。つまりこの2本は作家や詩人から、自立する女性を描いていて、それは元華族の娘であるヒロインが戦後に没落し、太宰治をモデルにした放蕩無頼の作家の子どもを自分の意思で身ごもることで、身分や社会的なしがらみから自由になろうとする「鳩のごとく 蛇のごとく 斜陽」も同様である。かつては常人とは違う作家や詩人の生き方に魅力を求める作品が多かったが、今は彼らを踏み台にして新たな人生へと泳ぎ出す、女性たちにスポットを当てているのだ。
また「あちらにいる鬼」と「天上の花」は、日活ロマン・ポルノなどで女性たちの愛と性を書いてきた荒井晴彦(75)が脚本を担当(「天上の花」共同脚本)。「鳩のごとく 蛇のごとく 斜陽」は、「大地の子守歌」(76年)や大映の若尾文子映画で、女性の自立を早くから描いた増村保造と白坂依志夫が遺した草稿脚本を、彼らの弟子である近藤明男監督(75)が映画にしたものである。
彼らが女性に向けていた目線が、この手の伝記映画にも生かされる時代になってきたわけで、作家や詩人を通して女性を描く作品は、これから増える気配がある。
(映画ライター・金澤誠)