野球
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ビールかけのやり方がわからない? 38年ぶりのリーグ優勝ゆえに起きたトラブルの中身
舞台となった宴会場の床はびしょびしょ、辺りには独特のアルコール臭というか、ビールの臭いが充満していた。 1998年10月8日、横浜は甲子園球場で阪神を下し、リーグ優勝を決めた。 その後、宿舎のホテルに戻って祝勝会。選...
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ペナントレース終盤の戦い方 今はアクセルを踏むのはまだ早い
私が中日の二軍投手コーチとして指導者人生をスタートさせたばかりの頃だから、もう50年近く前のことになる。ウエスタンリーグの試合で遠征したある日の夜、大阪球場を訪ねた。ナイターでの一軍戦に備えて練習中だった南海のドン・ブレイザー・ヘッ...
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38年ぶり横浜リーグ優勝の1週間くらい前から「2次会」会場の下見を始めていた
1998年6月、首位に立った横浜は、その後も球宴を挟んで10連勝するなど好調をキープ。7月以降は一度も首位を明け渡すことなく、10月8日に甲子園球場の阪神戦で38年ぶりにリーグ優勝した。 スコアは4-3。最後の2イニングを佐...
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降板を告げられた直後に「勝負せんか!」と一喝…権藤監督が何度も怒った理由
1998年7月、横浜はマシンガン打線が本格的に機能するようになる。 それまで手も足も出なかった中日の落合英二と宣銅烈を攻略すると、続く巨人戦は壮絶な打撃戦を制した。 2試合目は、8-7で勝った1試合目以上の打ち合いに...
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横浜移籍1年目、権藤監督は独り言のようにつぶやいた「近鉄時代を思い出せ…」
権藤さんは監督でありながら、投手交代のたびに自らマウンドに足を運んだ。 当時はいまのように試合時間の長さにナーバスではなかった。権藤さんは次に投げる投手の投球練習をマウンドの横で見守り、練習の最終球がキャッチャーミットに収ま...
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右脇腹を痛みを耐え抜き…3試合の雨天中止と敗戦処理の立場が奏功した
横浜移籍1年目の開幕直後、右脇腹を痛めたときはつらかった。 最初にブルペンで肩をつくるときは、あまりの痛さで涙が出そうになったくらい。1カ月近くの間、痛みに耐えながら投げていた。 それでも離脱するわけにはいかなかった...
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横浜1年目の開幕直後に古傷の右脇腹を痛めるも…投げ続けるしかないと思った
横浜移籍1年目の1998年、4月14日から広島市民球場で行われた3連戦の最中だった。 ブルペンに「次の回からいくぞ」という電話がかかってきて、準備をしていたときのことだ。投げた瞬間、右脇腹にビシッという感じの痛みが走った。 ...
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大魔神・佐々木主浩の驚愕発言「自分は先発投手の家族も養っている気持ちで投げている」
宜野湾キャンプのブルペンで、大魔神・佐々木主浩の投球練習を真後ろから見たときのことだ。 なにより、コントロールがいい。ストレートを両サイドにきっちりと制球していたが、それ以上に驚いたのがフォークボール。あれだけフォークが鋭く...
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横浜移籍1年目の沖縄キャンプの夜に「ハマの大魔神」が声を掛けてくれた
横浜に移籍して1年目の沖縄・宜野湾キャンプ。 最初の休日前夜、那覇の中心地の松山で投手会が行われた。ほとんどの球団でやることで、ルーキーや移籍選手の歓迎会を兼ねている。 会場は大ぶりの牛タンを串で食べさせる店。私や新...
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横浜移籍後の98年、キャンプ初のブルペンで最初にボールを受けてくれたのは権藤監督だった
「最初は敗戦処理からだからな」 巨人から横浜にトレードで移籍して迎えた1998年の沖縄・宜野湾キャンプ序盤。監督の権藤博さんは私にこう言った。 横浜は前年2位。監督が大矢明彦さんから権藤さんに代わって、今年こそ優勝する...
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あり得ないことが立て続けに起こって横浜へのトレードが決まった
巨人に移籍して3年目の1997年オフ。私は契約更改の席上、山室代表補佐に、とにかく一軍のマウンドに立ちたい、巨人でチャンスがないのならトレードで移籍しても構いませんと訴えた。 しかし、トレードには必ず損得が発生する。特に巨人...
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ファーム暮らし続く巨人3年目を支えてくれた 元近鉄ブルペンコーチの助言
「あのな、阿波野、おまえが投げている姿を見ているのは近鉄の人間だけやない。相手球団も、それ以外の球団の編成の人たちも調査のために見に来てるんや。だれが見ているか分からないんやから、野球に対してはしっかり取り組まんと。自分の置かれている...
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97年は最終戦でヤクルトのホージーを四球で歩かせただけで終わった
1997年のシーズンはヤクルトが2位以下に10ゲーム以上の大差をつけてリーグ優勝。巨人はヤクルトから20ゲーム差の4位に沈んだ。 最終戦は10月8日、神宮球場のヤクルト戦だった。私はその試合の八回裏、打席にホージーを迎えた場...
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巨人2年目は開幕を二軍で迎え、3年目は登板機会がさらに減った
近鉄時代は門限などなかった。いや、正確に言えばあったのかもしれないが、ないに等しかった。 しかし、巨人はキャンプの門限も厳しかった。なので、門限を破る人などいなかったように思う。まあ、いたとすれば、よほど高度なテクニックでバ...
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先発テストの黒潮リーグで打球が胸を直撃! 救急車で病院に運ばれた
すでに巨人の優勝がなくなった1995年10月3日。私は広島市民球場で行われた広島戦に先発、4回を投げて8安打、自責点4で3敗目を喫した。 巨人に移籍して1年目のシーズンは24試合に登板したものの、23試合はリリーフ。唯一の先...
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大学生投手の「ドラフト1位」評価は“上げ底”だ 代表から漏れた中にこそ逸材がいる
「今年は高校生より大学生が人気って言うけど、なんだかなぁ……」 6月18~20日、神奈川の平塚で行われた大学日本代表の選考合宿を一緒に見に行った部長がこうボヤいた。 「二刀流で注目される日体大の矢沢宏太(左投げ左打ち)、...
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宮崎空港の一室で長嶋監督に挨拶「よく来てくれたね」と握手を求められ
1994年11月7日、近鉄と巨人から私と香田勲男の交換トレードが発表された。 「決まったからには、チームに早くなじむためにも(巨人が秋季練習を行っている)宮崎に来ませんか?」と巨人の球団関係者に誘われ、正式発表から5日後の12...
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大谷翔平WBC代表入りの秘策 侍J栗山監督が温める佐々木朗希との「共闘」構想
エンゼルス・大谷翔平(28)の勢いが止まらない。リアル二刀流で出場した7日のマーリンズ戦、投げては7回2安打1失点10奪三振で8勝目(4敗)をマークすると、打っても1安打2打点1盗塁。米ESPNによると、1試合で10三振を奪い、かつ...
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球団社長からの電話で巨人・香田との交換トレードを通告された
その夜、私は同僚の高柳出己と2人、日向市内に食事に出掛けた。翌日、大阪に戻ることが急きょ決まったため、行きつけの店に挨拶もしたかったからだ。 わずか6試合の登板に終わった1994年のシーズン終了後のこと。 当初、秋季...
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球団社長に胸の内をぶつけると米田投手コーチから秋季キャンプに誘われた
「自分はいま、どういった立場にいるんでしょうか? 戦力として必要ないというのであれば、自分はもう、移籍しても構いません」 大阪は上六にあるホテルのラウンジ奥のスペース。私は向かい側に座っている近鉄の前田球団社長にこう言った。 ...
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まだ元気で投げられるとアピールしたくて巨人とのオープン戦での登板を直訴
仰木監督に代わって1993年のシーズンから近鉄の指揮を執ったのは鈴木啓示監督だった。 93年は主にリリーフで計22試合に登板して1勝3敗、防御率6.93。翌94年はシーズンの大半を二軍で過ごし、わずか6試合で0勝2敗、防御率...
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侍J栗山監督との対談で質問攻めにされた テレビ局の企画で指名される光栄
先日、テレビ朝日の企画で来春にWBCを控える侍ジャパンの栗山英樹監督と対談した。聞けば、「負ければ終わりの一戦必勝の戦いは、高校野球から学ぶことがある」と栗山監督が私に白羽の矢を立てたそうだ。とても光栄な話で、断る理由はなかった。 ...
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91年ドラフトで近鉄は即戦力右腕を1位で獲得 高柳を「立場危ういんじゃ?」と冷かしたら…
左肘を痛めて2勝2敗1セーブに終わった1991年オフのこと。 私は秋季練習が終わると、すぐに石川県の温泉に出掛けた。近鉄の投手陣は毎年、そこでオーバーホールをしていたからだ。 11月22日。当時は夕方からドラフト会議...
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「アンタがしっかりせんと上に行けないよ」仰木監督の言葉は重く励みになった
「左肘内側側副靱帯損傷」──。 1991年5月、左肘痛で戦列を離脱、医師の診断結果がこれだった。 いまなら、靱帯を修復するトミー・ジョン手術だろうが、当時のプロ野球界ではまだ、一般的ではなかった。ロッテの村田兆治さんが...
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クイックの練習で疲労蓄積 ボークの後遺症に左膝軟骨損傷が重なって膨らんだダメージ
リーグ優勝した翌年の1990年シーズン。キャンプ、オープン戦でも問題なかった私の牽制が、開幕後のあるとき、急に「ボーク」と宣告された影響は大きかった。 牽制は私の大きな武器だった。一塁走者をクギ付けにすることも多かったものの...
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絶対の自信をもっていた「牽制」が1990年開幕後…突然使えなくなった裏側
あれ? なんだ、この感じは……。 プロ4年目の1990年、自主トレでキャッチボールをしたときのことだ。肩肘が重いというのか、疲れが抜けていないような感覚に襲われた。 3年間の投球回数は705回3分の2。前年のオフは9...
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中日・根尾、日本ハム上原、日体大・矢沢…後出し感満載の「二刀流バーゲンセール」
ここへきてプロ野球は「二刀流」の花盛り。 メディアが面白がって「二刀流」と書き立てるが、当の本人は少し迷惑顔、ということが多かったが、最近は球団に「二刀流で行くからな!」と言われて本人もまんざらでもなさそうな選手も出てくるよ...
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仰木さんと川崎球場から銀座のクラブに直行…小宮悦子アナとの関係を尋ねると
あれはプロ3年目か4年目、川崎球場でロッテ戦があったときのことだ。 近鉄の宿舎は当時、三田(東京)にあった。そこからバスで球場入りする前、午後3時くらいだったと思う。部屋でくつろいでいると、電話が鳴った。広報の小野坂さんから...
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「パの宣伝部長」を自称した仰木彬監督 ビールの早飲みで使う選手を決めたことも
「来年の開幕は藤井寺球場が、お客さんで膨れ上がるんやないか」 1989年のリーグ優勝後のオフのこと。仰木彬監督はニコニコしながら、私にこう言った。 9年ぶりの優勝でファンが増えると思ったのだろうか、仰木さんに真意を尋ね...
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ドラ1候補“二刀流”日体大・矢沢にジリ貧巨人が熱視線も…評価はあくまで「150キロ左腕」
7月8日からオランダで開催される「第30回ハーレムベースボールウイーク」に出場する侍ジャパン大学代表選手選考合宿が20日、神奈川県平塚市で最終日が行われた。 ■大学日本代表で「背番号1」 午前中に紅白戦が行われ、48人...