<3>顔のない遺影 親父の死がフレーミングを教えてくれた
この写真も親父が撮ってくれたものでね、オレが小学校3年のころに作ったゾウの粘土工作なんだ。オレがこういうのを作ると、すごく喜んでくれて、「おまえは上手だぞ」って、ほめて、写真を撮ったりしてくれた。オレが写真を撮ると「ノブはスナップがうまい」って、ほめてくれてね。オレのことを最初におだてたプロデューサーみたいなのは、親父だったんだよね。
オレが写真をやることに確信を持ったっていうか、写真はこれだって分かったのは、親父が死んだ時だね。これは親父が死んだ時の写真でね、お祭りが好きだったから祭りの時の浴衣を着せて、ゴザの上で数珠を持ってる。
病気で入院して死ぬまでが長かったから、一緒に銭湯に行っていた頃の元気な親父の顔じゃなかったんだ、やつれちゃって。そんなの最後の遺影に撮りたくない。だから顔はカットする。
それで腕をまくって、腕の入れ墨を見せる。冗談だけど、入れ墨を入れればヤクザになれるって思ったらしいんだけどね。いつも一緒に銭湯に行って、背中流して、元気な親父の腕の入れ墨を見てた。だから親父が見せたい入れ墨を見せる。下駄の職人の手を入れる。見たくないものは切る。写真に撮ると、ずーっと残っちゃう、思い出しちゃうからさ。
そういうような、残したくないもの、記憶から消したいものはパッとみんな切っちゃう、切り捨てる。そういうのから始まっているの。で、あ、そうか、写真というのはフレーミングだなと。自分が除外するものと入れるもの、そういう作業なんだと。親父が教えてくれたんだよ、フレーミングっていうことをね。