希代ヒットメーカー相次ぎ死去…昭和歌謡は遠くなりにけり
「北酒場」を作曲した中村泰士さん(享年81)が20日に亡くなった3日後、同曲を作詞したなかにし礼さんがこの世を去った。82歳。ことしは秋に作曲家の筒美京平さんが80歳で亡くなっている。希代のヒットメーカーたちが遺した昭和歌謡のメロディーを聴き、口ずさんで生きてきた中高年世代は冥福を祈るばかりだろう。
なかにしさんは歌について、「時代が咲かせる花」だと定義していた。約4000曲もの楽曲を作詞した、圧倒的な創作の源泉については、こう繰り返していた。
「昭和という時代への慈しみ、悲しさ、憎しみや恨みがあった。戦後の苦労なんかも含め、そうしたものを書きつづっていたんです」
その原点にあったのが壮絶な戦争体験。旧満州(現中国東北部)に生まれ、6歳のときに日本の敗戦で母と妹との3人で脱出しての逃避行のなか、父を亡くした。命からがらたどり着いた父母の故郷小樽では引き揚げ者として周囲からいじめに遭った。さらに特攻隊帰りの兄のニシン漁へのバクチのような出資で一家は破産、幼くして人生の辛酸をなめた。このときの情景を歌にしたのが名曲「石狩挽歌」であり、自らの過去、実体験に向き合い続ける。
歌謡曲のドーナツ盤約5000枚を収蔵する構成作家の加藤剛司氏はこう言う。
「昭和の時代を生き、名曲や名作を世に送り出した方々はそのほとんどが、お話を聞くと戦争に行きつき、そこでの情景や経験を決して忘れてはいないとの印象があります。死んでいった人々への思い、生き残った責任、悔恨のようなものを胸に抱え、その意味を問い続ける。作家の五木寛之さんも戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた経験を原点とされ、それで己にむち打つといいますか、定期的に肉を噛まずにのみ込んでいるというお話をお聞きしたことがあります。胃を鍛えるためとおっしゃっていましたが、そういう気構えでどうしようもないものに対峙しようとしているように思ったのを覚えてます」