歌手・野村将希さんは1979年の渡米が人生の転機 演技スクール発表した「狂言」が自信に
野村将希さん(歌手/69歳)
昨年、歌手デビュー50年を迎えた野村将希さんは、時代劇「水戸黄門」でもロングランの活躍を続けている。人生を変えた瞬間は、レコード大賞新人賞を受賞したデビューから9年で仕事が激減した時のアメリカ行きと、ブロードウェーのミュージカルスクールで演じた狂言!?
■森田健作さんとは対照的な性格です
渡米したのは1979年です。70年に17歳で華々しくデビューしたものの、9年経ったその頃は仕事が減ってきたんですよ。でも僕は事務所の心配をよそに、気にしてなかった。
サンミュージックのタレント第1号は先輩の森田健作さんですが、僕らは対照的な性格でした。彼ならちょっとスケジュールが空いたら、すぐ事務所に来たりしていたけど、僕の場合は「野村は仕事がないのに、顔も見せずに何してんだ」と事務所の人たちに呆れられたほど顔も出さなかった(笑い)。
さすがにかなり仕事がなくなると「このままじゃ俺、芸能界からいなくなっちゃうぞ」と不安になり、「アメリカに行って変わってやろう!」と考え始めました。その数日後、相沢(秀禎)社長から電話で「アメリカ行ってミュージカルの勉強してこい」と言われて。
「俺もそう思ってましたよ!」と二つ返事。人生の大きな瞬間のタイミング。僕の気持ちと同じでしたから。社長はもともと、歌手を目指して上京した僕がバイトしていた新宿の靴屋にフラッと入ってきて「君、俳優になる気はないか」とスカウトしてくれた人。希望通り、歌手デビューさせてくれましたから。
さっそく渡米し、最初は以前に事務所にいた人を頼ってシカゴへ。そこでは英語の勉強。その後にニューヨークに越して、目的のブロードウェーにあるAMDA(アメリカンミュージカル&ドラマチックアカデミー)で勉強しようと。本場はすごいですよ! 日本でプロとして仕事しているダンサーも習っているほど。僕は入学試験で「日本のプロの歌手です」と自分のレコードを見せたけどダメで、ビリー・ジョエルの曲を歌って、やっと合格。
レッスンは厳しかったし、大変でした。シェークスピアを教わっても普通の英語がやっとわかる程度なのに、古典演劇がわかるわけない。最後に生徒が修了の発表会をやるんです。年配のアクティングの女性の先生が「マサキ、これをやってくれないか」と小さい本を渡されたのですが、それが狂言の本。いくつかの演目の台本を多分少し短くして載せてある本で、全部英語で書いてある。
「無理です!」と断っても、「ユーならできる! やってほしい」と。先生は狂言や能や歌舞伎にすごく興味があって、日本人にどうしてもやってほしかったようです。仕方がないから、最も短い「柑子俵」という演目を、知ってる限りの知識でやってやろうと。もうやるしかないし。
メキシカンとスパニッシュの2人をメンバーに入れて、すり足でストップモーションみたいにゆっくり歩くよう教え、英語のセリフには低い声で「アラ~ウンド~」とか、狂言の節をつけて練習させましたよ。
筋トレのおかげでマッチョな「水戸黄門」忍者役がきた
先生や生徒の家族が100人以上見る発表会で狂言をやりました。話の最後は鬼に食べられちゃうので、僕が早変わりで鬼に扮装して出てくる演出にしたんです。顔は白塗り、頭に巻いた鉢巻きに、角に見立てた物を差し、サテンの布を羽織って両手に扇子。そして、演じた最後に舞いを見せてから見えを切り、同時に舞台を暗転にしてもらった。
その瞬間、客席がスタンディングオベーション! 「こんなにウケた!」と驚きました。終わってから先生にはハグされ、「グレート!」と感動されたほど。アメリカだからウケたわけですが、自分にとっては、これが大きな自信になったんです。
帰国後に本格的にミュージカルをやるようになり、しばらくしてマネジャーから「水戸黄門」のプロデューサーを紹介されて。米国にいた頃から筋トレを続けてマッチョになっていたから、「こういうマッチョな忍者がいてもいいのか」と思ってもらえたのか、柘植の飛猿の役がつくられたんです。米国で勉強してからミュージカルに出るようになり、「水戸黄門」に出演するまでの流れが早かった。
だから、僕の人生を変えた瞬間はアメリカに行こうかと考えていた時の社長からの「アメリカ行ってこい」という電話とニューヨークで最後に狂言を演じたこと。狂言は今でもやってよかったとしみじみ思っています。
(聞き手=松野大介)
▽野村将希(のむら・まさき)1952年11月、福岡県出身。70年に歌手デビュー。「一度だけなら」で第12回日本レコード大賞新人賞。87年から「水戸黄門」に出演。