中森明菜「伝説の歌姫」の40年…80年代が生んだ最大のアイドルの転落、57歳での再始動
近藤真彦との禁断の恋、そして… 23歳の「歌姫」が背負った深い傷
「80年代が生んだ最大のアイドル」──。音楽プロデューサー酒井政利の言葉に異論がある人は少ないだろう。「歌詞に魂を吹き込むことができる稀有な歌手」ともいわれたが、なぜ表舞台から消えてしまったのか。
「スター誕生!」から飛び出し、「花の82年組」としてデビューし、スポットライトを浴び続けた明菜が転落するきっかけになったのは、1989年の自殺未遂事件だ。現場は恋人だったマッチこと近藤真彦の自宅マンションだった。日刊ゲンダイの「完全保存版 THE 芸能スキャンダル!」(2016年刊)で、騒動をコンパクトにまとめている。
〈89年大晦日、12月31日午後10時、新高輪プリンスホテルで緊急記者会見が行われた。明菜の復帰会見だ。テレビ朝日は大晦日の特番を急きょ変更して生中継した。
それまでのロングヘアをショートにし、シックなグレーのスーツ姿にイメージチェンジした明菜がそこにいた。彼女は200人を超える報道陣を前にして「ご心配をおかけしましたことを深くお詫びします」と深々と頭を下げた。そして、途中からもうひとりの渦中の人、近藤真彦も壇上にのぼった……。
このおよそ半年前の7月11日。六本木のマンションの自室に帰った近藤は浴室で血まみれで横たわる明菜を発見した。明菜の傷は左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチ。ためらい傷もない深いもので重傷。慈恵医大に運ばれ、6時間に及ぶ難手術の結果、命を取り留めた。
明菜と近藤はその6年ほど前からお互いの家を行き来しているところを目撃され、結婚秒読みとも噂されていた。
なぜ自殺未遂──。結婚願望が強かった明菜と結婚は30歳過ぎてからという近藤には結婚に対して温度差があった。その年の2月に近藤が「フライデー」に松田聖子とニューヨークでの「密会」をスクープされる騒動もあった。
ところで、この時、会見で2人はお互いをどう語ったか。明菜は自殺未遂に及んだ理由を仕事上の人間関係が原因としながらも、現場に近藤宅を選んだことについて「自分が一番信頼できたたったひとりの人だったから」と答えて「一番最初に見つけて欲しかった」からと切々と訴えた。近藤に対しても「一番大切な人を傷つけてしまった」と深く謝罪した。
これに対して近藤はというと「(復帰の)お手伝いが少しでもできたことにすごく喜びを感じています」と優等生的な受け答えで、リポーターの「結婚は?」の質問に対しては「そういうことはまったくありません」とにべもなかったのだ。この会見は近藤側の仕掛けによる彼の「ケジメ会見」ともいわれた〉
■なぜか金屏風の前で会見
会見はなぜか金屏風の前で行われた。ホテル側が「明菜の婚約会見」と勘違いしてセッティングしたという報道もあった。もしそうなら、明菜の戸惑いや悲しみは倍増していたに違いない。
自殺未遂当時、明菜23歳、近藤24歳。77年にデビューして人気アイドルだった近藤は、「スタ誕」をめざした明菜にとって憧れの人だった。交際は明菜が芸能界デビューした直後からスタートし、近藤のことを「お兄ちゃん」と呼んで慕っていた。明菜の家族が都内でカラオケスナックを経営していた時には2人でやってきたこともあったという。
近藤を信じていた明菜はお金も融通した。近藤はその頃からカーレースに夢中になり、明菜には将来のマイホームの土地を購入するためと話を持ちかけ、金額は8000万円ともいわれた。後に近藤が語ったところによれば「マネジャーがやったこと」だというのだが、返済はされなかったようだ。
明菜が近藤に恨みがましいことを言ったことはない。しかし、だからこそ痛すぎる。「歌姫」明菜の胸中に深く残った暗い影と傷。それが転落のきっかけとなっていくのである。