ピンク映画界史上初の女性監督 浜野佐知さんが見つけた「女の私にしか撮れないもの」
浜野佐知さん(映画監督)
ピンク映画の現場から這い上がったピンク映画界史上初の女性監督。それが浜野佐知さんだ。これまで監督・製作したのはピンク映画約300本、一般映画6本。今月22日には、映画監督人生50年を振り返った自伝「女になれない職業」(ころから)を出版する。
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──映画界でハラスメントの告発が続いていますが、それに合わせたタイミングでの出版?
違います。ハラスメントも問題ですが、私がこの本を書いたきっかけは、映画そのものが変わってきたからです。だれでも簡単に映画が撮れるようになった。スマホで撮って、パソコンで編集すれば、自分1人でも映画ができる。フィルム時代の厳しい徒弟制度や修業期間がなくなって、女性スタッフが飛躍的に増えたという利点もありますが、その一方でフィルムを全く知らない監督やスタッフもいる。だから私は、フィルムの時代に映画監督を職業として生きた女性監督として、かつて映画監督が「女になれない職業」だった時代へのレクイエムとしてこの本を記したんです。
──映画監督は「女になれない職業」だった?
監督になるには、大手映画会社傘下の撮影所に就職し、助監督を経なければならなかった。でも、その就職条件が「大卒・男子」だったんですよ。女にはハナから道が開かれていなかったんです。
──自伝によれば、やっと見つけたのがピンク映画の製作会社。女優以外は現場に女性がいない中、今で言うハラスメントの嵐では?
映画界に限らないと思いますが、女が男に交じって仕事をするんですから、セクハラ、パワハラいろいろありましたね。ただ、助監督として現場にいる以上、何があっても耐えてみせるという覚悟はありました。でも、地方ロケで深夜、寝床に忍び込んでくるのは違うよね。包丁抱いて寝て、振り回したりしましたよ。
──監督となって50年。業界の変化を感じる?
フィルムからデジタルへの変化が大きいですね。フィルムだとNGを出せないから現場の緊張感が違う。私はその緊張感が好きだったんですが、デジタルだと撮り直しが何度でもきく。現場は編集のための素材を集める場になってしまったんです。
あとは世代間のギャップですね。驚いたのは、若手スタッフに「ご飯、一緒に行く?」と誘うと「それもギャラのうちですか?」とか、「才能ないから、帰れ!」って怒鳴ると、リュック背負って「帰ります」ですからね。唖然ですよ。確かにスタッフを怒鳴り散らすのが「浜野組」なんだけど、個人的ないじめなんかじゃなくてね、私はスタッフ、キャストはその作品のために力を合わせるチームだと思っている。だから作品のためにならないと思えば怒鳴る。
でも、それは撮影期間中だけで、終われば和気あいあいなんですよ。慣れているスタッフなんかは、私が現場で静かだとむしろ「監督、具合悪いんじゃない?」って心配するから、わざわざ怒鳴って「私は元気だ」とアピールしたりね。まあ、第三者にはパワハラと映るかもしれないけどね。
──浜野監督の映画には「女の性」というテーマが一貫してある。
私は23歳で監督デビューしたんだけど、それまでのピンク映画は、チンコ至上主義というか、レイプされても突っ込まれれば喘ぐような女性像ばかりだったんですよ。そんな女いねぇよ! いくら何でも違うだろうと。それで、デビュー作の「十七才すきすき族」(1972年)で、主人公の女の子が自ら全裸になって、男に「やろうよ」と言うセリフを書いたら、配給会社からクレームがついた。
女にそんなことを言われたら、男は萎える。女は恥じらいながら股を開くのがいいんだ、って言われたんです。男どものバカげた妄想に付き合っちゃいられねぇ、私は女の手に女の性を取り戻すぞ、って決めました。だったら私がピンク映画をやる意味もある。観客は女の裸を見にくるんだから堂々と女を主人公にできるしね。
──女性監督ならではのピンク映画の誕生。
女の私にしか撮れないピンク映画を作るためには、自分がプロデューサーを兼ねる必要がありました。それで1985年に「旦々舎」という製作会社を立ち上げたんです。
──ピンク映画の売れっ子監督に。
男中心の性的価値観を100%ひっくり返し、女の主体的な欲情を描く。女の体はこんなにも美しいのに、なぜ猥褻と断じられるのか。乳房、お尻、股間、皮膚の質感まで見せるようドアップで撮りました。それが観客に新しいエロとして受けたんだと思います。陰毛など1本たりともご法度の時代に画面いっぱいに本物の陰毛を映しましたから。もちろん毎回映倫とは揉めましたけど。
■田中絹代が劇映画を最も多く撮ったと言われ…
──最初の一般映画の公開は1998年。
96年の東京国際映画祭・カネボウ国際女性映画週間に参加したとき、公式記者会見で「日本の女性監督で最も多くの劇映画を撮ったのは田中絹代監督の6本です」という発表があったんです。6本で「最も多く」? その時すでに私は160本以上撮っているのに(編集部注:データ未詳の作品も多く、実際はもっと多い)私が撮ったピンク映画は映画としてカウントされない。ショックでした。
このままでは、私は日本の女性監督として存在しないことになる。ならば、自身の存在と尊厳をかけて、女性映画祭に出品できる映画を作ろう、そう決心したんです。それで、一般映画の1本目として撮ったのが、「幻の作家」と言われていた尾崎翠の代表作「第七官界彷徨」と彼女の人生を描いた「第七官界彷徨-尾崎翠を探して」でした。