パインアメ 上田豊会長(1)阪神・岡田監督の大好物「貴重なパインをもっと気軽に」という憧れから誕生
阪神が38年ぶりに日本一になり、岡田彰布監督の大好物で話題となった「パインアメ」。工場もフル稼働しているが、パインアメの生産は追いついていない状態だという。
パインアメが生まれたのは、戦後すぐの1951年。きっかけは、元々パインが好きだったという先代の上田保夫氏が創業した。半世紀を経ても愛され続ける理由とは。また、時代とともに歩み続ける秘訣を、パイン株式会社の上田豊会長(73)に話を聞いた。
「当時、パインといえば、パイン缶を指していましたが、市場には進駐軍用のものしか出回っていませんでした。生のものは流通せず、とても貴重なもので、病気になったときにしか食べられない憧れの食べ物でした。それをアメにして、気軽に食べられるようになったらどれほど喜ばれるだろう、そういった気持ちがきっかけとなったそうです」
保夫氏が戦地から帰国後、父が営んでいた製菓業を再スタートさせた。パイン株式会社の前身となる、業平製菓のスタートである。
「元々、祖父が業平本舗という米菓子製菓を営んでいたこともあり、その名前をもらい、製菓業をスタートさせました。昔は、どうしても長男だけが優遇される時代でしたので、父は次男ということもあり、『自分でやったるわ』といって、創業したみたいです」
業平製菓創業後、水アメや寒天ゼリーを中心に販売していたが、当時、戦後すぐということで、甘い物が飛ぶように売れる時代だったという。
しかし、戦後、世の中が落ち着き始めると、甘ければ売れるという時代は終わりを迎えた。そこで、先代が“ひらめいた”のが、パインアメだった。
「ひらめいたものの、アイデアを形にするのが非常に大変だったそうです。当時は、今のパインアメのように真ん中に穴は開けておらず、パイナップルの輪切りの模様を型押ししただけでした。これが、機械による型抜きが全然できずに苦戦し、半ば諦めていたのですが、とある金型彫刻専門の企業さんとの出会いで、物理的に計算することできれいな型抜きができるようになりました」
アメの形はできたが、パイナップルの香料はなく、当時あったリンゴやミカン、レモンなどの香料などをミックスし、どうにかパイナップルらしい味になったそうだ。