アメリカに読まれていた日本の動き 「そのあとは戦争である」と電報は伝えていた

日米間のだまし合いが具体的になったのは、昭和16(1941)年11月20日からと言っていいだろう。この日からほぼ1週間は、お互いに腹の探り合いに終始していくことになった。むろんその結果は見えていて、日本の手の内は全てアメリカに読まれているのだから、日本はいいようにあしらわれてい…
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