戦火のウクライナと軍事侵攻のロシアに思うこと(下)
ロシアによるウクライナへの攻撃は日増しに激しくなっている。すでにFIFA(国際サッカー連盟)はロシアのカタールW杯予選からの除外を決定し、UEFA(欧州サッカー連盟)もクラブチームの大会参加を認めない決定を下した。
こうした連盟単位だけでなく、ブンデスリーガのシャルケ04はロシア軍が侵攻した2月24日、胸スポンサーのガスプロムのロゴマークを撤去すると発表した。ロシアのガスプロムは世界最大の天然ガスを生産・供給している大企業だが、シャルケ04の決断は早かった。
■ロシア実業家がチェルシーを手放した
3月2日には、プレミアリーグの名門チェルシーのオーナーであるロシア人実業家ロマン・アブラモビッチ氏がクラブ売却の意向を表明。同氏はクラブの公式サイトを通じて「クラブの利益を最優先に考えて決断した」と理由を説明した。
アブラモビッチ氏は以前からウラジーミル・プーチン大統領と近い関係にあり、英国政府とロシア政府の関係悪化によって2018年のビザ失効後は再発行が認められず、プレミアリーグを観戦できずにいた。
ロシアのウクライナ侵攻後はチェルシーの管理・運営を「クラブの財団に委譲した」と発表したが、ロシアに対する批判や制裁が強まったことで売却を決断したようだ。
ガスプロムは2015年から2018年に開催されたロシアW杯まで、期間限定ながらW杯における最上位の「FIFAパートナー」を務めたオフィシャルスポンサーだ。ホスト国の企業としてW杯をスポンサードした他、シャルケ04以外にもセルビアのレッドスター・ベオグラードを、またUEFAチャンピオンズリーグ(CL)をスポンサードしてきた。
ちなみにロシアW杯の「FIFAパートナー」はガスプロムの他に2022年大会の開催国であるカタールのカタール航空、1978年アルゼンチン大会からスポンサーを続けているコカ・コーラとアディダス、さらにVISA、韓国の現代(ヒュンダイ)自動車グループ、不動産業に映画産業、金融、ITなど中国の大連万達グループ(ワンダ)の7社だった。
そして「FIFAパートナー」の次に位置付けられている「W杯スポンサー」はマクドナルド、ビール会社のバドワイザー、Vivo、蒙牛乳業、海信集団(ハイセンスグループ)の5社だ。
マクドナルドとバドワイザー以外の3社はいずれも中国の企業で、Vivoはアジアで人気のあるスマホメーカー、蒙牛乳業は中国トップの乳製品メーカー、海信集団は電機メーカーである。
3番目は地域を限定した「リージョナルサポーター」。欧州はロシア鉄道、アルファ銀行、アルロサ、ロステレコムのロシア企業4社が、アジアからは雅迪、LUCI、帝牌と中国企業3社が参加した。
ロシアW杯は、開催国ロシアの企業がスポンサーとして名前を連ねたのは当然としても、近年のW杯やクラブW杯は中国企業の進出が目立つ。
そういえばロシアW杯の決勝戦が行われたモスクワのルジニキ・スタジアムでは、なぜかバルセロナのユニホームを着た中国人であふれていた。おそらくスポンサー枠で無料招待されたのだろう。
日本は長い間、W杯で「その他の国」扱いだった
過去には1978年アルゼンチン大会で初めてキヤノンがスポンサーを務め、その後は富士フイルム、JVC(日本ビクター)、ゼロックスなどが長くスポンサーとして大会を支え、近年ではソニー(プレイステーション)がオフィシャルスポンサーだったが、現在ではすべての企業が撤退している。
1986年のメキシコW杯の時だった。放映権とオフィシャルスポンサー権を担当する大手広告代理店の電通社員はメキシコ・シティ市内のホテルの1フロアを1カ月も借り切り、スポンサーの権利が守られているかどうかをチェックしていた。
するとプレスセンターに配置されているテレビがアメリカ製であることが分かった。開幕が迫り、日本からJVCのテレビを調達する時間はない。そこでロゴマークに黒のガムテープを貼って難局を乗り切った。
もうひとつ、彼らには大事な仕事があった。それはFIFAから入場チケットを確実に受け取ることだった。W杯のチケットは「プラチナペーパー」でもある。窃盗団からすれば現金と同じようなもの。万難を排して安全かつ確実に入場券をFIFAから受け取らなければならない。手元に届いた入場券は日本の各スポンサーが招待した日本人に渡された。
■「出場もしていないのに日本人記者が多過ぎる」
2年後の1988年に西ドイツ(当時)で行われたEUROでも代理店社員は奮闘した。決勝戦の後は、ミュンヘンにある有名なビアホール「ホーフブロイハウス」(ヒトラーがナチスの結党大会を開いたことでも有名)の2階レストランで招待された日本人の夕食会が開催された。
メキシコW杯では取材する日本人も通信社に朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の3大紙、スポーツ紙のサッカー好き記者、サッカー専門3誌に限られていた。このため現地では他国の記者から「出場していないのによく来たな」と歓迎された。
4年後のイタリアW杯では状況が一変した。前年の1989年11月にJFA(日本サッカー協会)がFIFAに対して「W杯開催国立候補の意思表示」を行って招致活動を開始した。1990年イタリア大会では「日本で開催される(であろう)W杯で取材用IDカードがもらえるように実績作り」として多くの日本メディアが取材に訪れた。
ローマのオリンピコ・スタジアム内にあるプレスセンターで海外の記者にW杯招致をアピールしようと村田JFA専務理事と中野JFA事務局長がパンフレットを持ってやって来たが、IDカードがないので入場できない。そこで筆者が2人からパンフレットを預かり、海外の記者に配って回った。当時の彼らが、将来的に日本開催が実現すると思っていたのか、今もって不明のままだ。
W杯本大会の試合を取材する記者には「優先順位」がある。①開催国②試合をする当該2カ国③同じグループの国④大会に参加している国ーーという順である。日本はというと「アザーカントリー(その他の国)」という扱いだった。
1990年イタリア大会では、試合取材チケットをもらえなかった他国の記者から「出場もしていないのに日本人記者が多過ぎる」とクレームをつけられた。ドイツ人記者が「日本は出ていないが、日本企業は長い間W杯をスポンサードしてFIFAを助けてきた」とフォローしてくれたことを思い出す。
しかしながら、1998年大会を最後にキヤノンがスポンサーから降り、2002年の日韓共同開催では多くの日本企業がW杯のスポンサーになったものの、4年後の2006年ドイツ大会は富士フイルムと東芝だけ。W杯のスポンサー企業で目立つのは、日本企業の撤退と中国企業の台頭である。一抹の寂しさを感じずにはいられない。