(16)坂の前で2人の立場が逆転
まさか、こんな暮らしが手に入るなんて。
景子は、目の前に広がる光景を眺めながら、うっとりとつぶやいた。
このマンションは高台にある。しかも目の前は公園だ。そう、いわゆる、高台の低層マンション。景子がずっと憧れていた暮らしだ。
東三条という苗字になって、半年が経とうとしている。
「五十歳を過ぎて、そんな素敵な縁に巡りあうなんて、奇跡じゃない?」
いつだったか、知人の田端さんに揶揄われたことがある。彼女はこんなことも言った。
「まさか、私のご近所さんになるなんて。嬉しいわ」
嬉しい? まさか。ずっとマウントをとってきた相手が、自分と同じ位置まで這い上がってきたのだ、内心はもやもやしているに違いない。彼女は女性誌の雇われ編集長をしていて、景子にとってはクライアントだ。下請けが自分の生活圏にやってきたら、複雑な気分にもなるだろう。だが、彼女はそんな捻れた感情はおくびにも出さず、あそこのスーパーはいいお肉を取り扱っているだの、あそこのイタリアンのパスタは絶品だの、ワインを買うならあのお店がいいだの、そんな情報を聞きもしないのに教えてくれる。ここに越してきてすぐに、ランチでもどう? と誘われたので一緒にランチをしたこともあるが、そこは一番安いコースでも六千円はする熟成肉専門店だった。メニューを見て驚く景子の様子に少しだけ優越感を抱いた彼女だったが、帰り道、坂の前まで来たときに、その立場は逆転する。
「うち、坂の上のマンションなんですよ。ほんと、この坂、きつくて、困りますよ」
景子は無意識にそんなことを言ったが、それは、田端さんにとっては我慢できないほどのマウントだったのだろう。
「いい運動になっていいじゃない?」と吐き捨てると、彼女は、そのまま低地に繋がる道へと歩いて行った。
彼女はなにを怒っているのだろう。それを理解したのは家に戻ってからだ。リビングの腰高窓からは低地へと繋がる道が見下ろせる。
「あ」田端さんの姿を見つけた。田端さんが、こちらを見上げている。
それ以降、田端さんからの連絡は途絶えた。
まあ、いいけれど。今は、昔のようにあくせく働く必要はない。マンションは夫が所有していて、家賃の心配はない。食費と光熱費は景子が払っているが、夫は昼も夜も外食で済ませるので、景子が負担するのは朝食だけだ。光熱費はやや高いけれど、独身時代に払っていた家賃を思えば、許容範囲だ。
「家計は分担するが、それ以外は自由」
これが、結婚のときに交わした約束だ。お財布は別にして、お互いの自由を保障しようというルールだ。
「そういえば、以前、取材した人も夫婦のお財布が別々だったな。えっと、あの人は--」
ふとそんなことを思い出し、パソコンのフォルダーを探っていると、当時の原稿が見つかった。
「そうそう。小説家の石塚朝美さん」
芋蔓式に記憶が蘇る。取材したその夜に、酔っ払って電話をかけてきた。聞くと、旦那が仕事を辞めたとかなんとか。
結局、あの人、どうなったんだろう?
(つづく)