病魔と闘い、昭和の終わりとともに去った美空ひばり
8日に緊急入院。病院側は検査入院を強調したが、東京に戻って3月15日には再び検査入院。マスコミの間で重病説が囁かれるようになる。退院して21日に自宅からラジオ出演したが、直後に体調を崩して再び入院。
4月17日には横浜アリーナ公演が予定されていた。同公演は弱冠17歳の養子、和也さんをプロデューサーとして起用、舞台構成から装置、演出まで任せた。長男を「男にするため」に「這ってでも舞台に出たい」と言っていたが、この公演を含めスケジュールはすべてキャンセル。年内の活動休止が決まった。
入院後、病院側のガードは異常なほどに堅かった。マスコミはおろか関係者の面会も大幅に制限されて、病状も公表されず。周囲には緊張感が漂い始めた。「髪の毛が抜けている」「げっそりやつれている」などの情報も乱れ飛んだ。
相次ぐ重体報道に、レコード会社側が会見を開き、病床の写真と自筆メッセージ、録音テープを公開。一時は体調も持ち直し、病院の屋上を散歩し、パターの練習をする姿もキャッチされた。
ところが、6月に入って体調は急速に悪化。病名は噂されたがんではなく、間質性肺炎と肝硬変だったが、6月13日からは心臓機能も低下し始める。人工呼吸を行う強化治療に入るため、意識を抑制することを聞いた美空は「頑張ります」と答えたが、その後、意識が戻ることはなかった。歌手の命であるのどを切開するなど必死の治療もむなしく、6月24日午前0時28分、52歳で帰らぬ人となった。