故マンガ太郎さん 容体急変前の取材で語っていた最期の話
マンガ師匠の芸は軽妙にして洒脱だ。おしゃべりや歌で観客をくすぐり、似顔絵や世相を漫画に仕立てる。出色は“逆さ芸術”なる芸だった。
「最近よく使うのは沖縄民謡の『花』ね。歌いながらカンバスに筆を走らせ、サビの、♪泣きなさい~ときたところで女性の泣き顔が完成し、♪笑いなさい~でカンバスを反転させると泣き顔が笑顔になる。けっこう手がこんでるんです」
さて、マンガ師匠が漫画漫談でデビューしたのは20歳の時。
「高校時代から漫画でおカネ稼いでたし、そのまま漫画家になるつもりだったんです。ところが、春田美樹師匠の漫画芸を目の当たりにして衝撃を受け、すぐ弟子入りしちゃった」
大胆にもデビューの翌年、海外のステージへ。
「最初は香港でした。大卒の初任給がまだ1万円に届かない時代に、ギャラが週給50ドル。まだ為替レートが360円だったから、1万8000円ですよ。行くのは当然でしょう。香港では1年ほど仕事して、その後は東南アジアや台湾、あと、戦火のベトナムの米軍基地を慰問したこともあった。こちらは1ステージ1000ドル。ただ、そこは戦争の最前線で、オーストラリアの芸人さんが爆死した話を聞き、逃げ帰りました」