五木寛之氏「親鸞の最後は無造作に書く。それは決めていた」
■60~90歳までの生き方を語る哲学はない
――「完結篇」は親鸞が60歳以降、京都に戻り、90歳という、当時では考えられないような長寿を全うして、死ぬまでが描かれています。波瀾万丈ではないが、静かな晩年、死に際に多くの読者が興味を持ったと思います。超高齢化社会に入り、時代が下山の思想というか、死に方を求めているような。そんな気もします。
日本人はローマが好きですよね。政治家から庶民まで興亡史を愛読しますが、「興」よりも「亡」、つまり、なぜ、ローマが滅びたかに興味があるのだと思います。大英帝国もスペインもポルトガルも黄金時代があって、盛りが過ぎ、老大国として生きている。経済活動は興隆期に発展するが、文明は成熟期以降に育つ。いかに豊かに、希望を見いだしながら余命を生きていくか。これは非常に大切なことだと思います。
――「親鸞・完結篇」にはそうした哲学が息づいているように感じました。
ほとんどの哲学思想は青春期から壮年期の人間のためにあるように思うんですね。60から90までの人間の生き方、死に方というものを的確に語ってくれている哲学者とか思想書は見当たらないでしょう。そういう意味で親鸞は多くの人に振り返られるのだと思います。道元とか空海は早く亡くなっているし、キリストは30代で死んでいる。偉大な宗教家で90歳まで生きた人は少ないんです、ブッダが80、法然が80、蓮如は85ですが、90歳はいない。ところが、いまはみんな親鸞みたいに90歳くらいまで生きる。親鸞の晩年の思想とか生き方に大きな関心が集まるのはそういうことなんでしょう。これからはひとつの哲学で人生を語るのは不可能だと思います。青春期の、壮年期の生き方、晩年の過ごし方、最晩年の死に方と、それぞれ、きっちり考えていかないといけないんじゃないかと。