五木寛之氏「親鸞の最後は無造作に書く。それは決めていた」
――だから、読みだすと止まらなくなってしまうんですね。五木さんは「親鸞は他力で書いた」というようなこともおっしゃっていましたね。
そもそも、宗教家の教祖みたいな人を新聞小説の主人公にする例はあまりないと思いますよ。それを引き受けてくれる新聞社がたくさんあったのはありがたいことです。僕自身も老眼以外は健康でなんとか完走できました。それから、ここ10年くらいですか、いろいろなアプローチからの親鸞論が出ていますね。そういう時代の後押しもありました。僕は潮流の中の「流されゆく日々」を生きていますから、そうした流れに押し流されて書き終えた感じです。
――とはいえ、書き始めるにあたって、小説全体の構想というか、最後はどうしようかというものはあるわけですよね。
僕が一番最初に考えたことはひとつだけです。親鸞の死を無造作に書こうと。本当に自然死というか、枯れ枝が折れるような死に方というか、とにかく、あっさり書こうと思ったんですね。僕は若いころジャズが好きでしたけど、モダンジャズではなくデキシーランドジャズが好きでした。あれは終わり方が唐突なんです。ブラームスの交響曲のようにしつこく、何度もジャジャーンとやらない。ポキッと折れるような、アレッて思う終わり方をする。親鸞もそう書きたかったのです。