NHK「クロ現」3月降板 国谷裕子が辿った挫折とリベンジ
帰国後、外資系の家庭用品メーカーに就職するが、最先端ビジネスの手法に馴染めず、1年で退職。やりたいことが見えないまま、26歳まで派遣会社や外国人記者クラブに登録して、海外映像チェック、リサーチなどに従事した。
チャンスは一本の電話からだった。家族ぐるみで交際があったNHK特派員からの要請で、81年、「7時のニュース」英語放送アナウンサーに。85年、29歳で結婚すると渡米して専業主婦になるが、87年、BSニューヨーク発のキャスターに就任。ジャーナリストの立花隆氏に評価される。88年に帰国し、NHK「ニューストゥデイ」のキャスターに抜擢。30歳だった。ところが橋本大二郎や福島敦子などに囲まれているうちに、キャリア不足を痛感した。半年後にBSに戻され、これが人生最大の転機となった。
09年の「AERA」のインタビューで「この先、自分らしく生きるためには、キャスターとして成功しなくてはと思いました」と語っていたように、BSは国谷にとって敗者復活戦の舞台となった。89年、ゴルバチョフと鄧小平の首脳会談取材のため北京を訪れると、天安門事件に遭遇し、広場が見える部屋のベランダからリポートした。ベルリンの壁崩壊や湾岸戦争勃発など世界が激動する時代に、毎日さまざまな識者にインタビュー。睡眠時間3、4時間でひたすら走り続けた。そしてとうとう「クロ現」にたどりつき、報道の世界でリベンジを成し遂げた。