テレビは“使命”を思い出し、今こそ福島・辺野古に踏み込め
先月も書いた。福島の原発がメルトダウンし、もう8年近いのに、原発の現状ぐらい、テレビで伝えたらどうだと。
「本日も心配をおかけします。今日の3号機の格納容器ですが……、1号機の方はプールから使用済み燃料棒も取り出せてなくて、手がつけられないままです。地元の皆さまおよび日本中に迷惑をおかけしてます」
と、朝ワイドのコーナー司会役ならオレが現地中継でやるから番組作ってみろと、この紙面で各テレビ局に呼びかけたつもりでいたが、冗談に思われたか、いまだ何の出演打診もないままだ。テレビ局っていうところは、東北や福島県で暮らす人のことを、どこまで思いやってるんだろう。多分だ。多分、何も思ってないという気がする。「テレビ屋」の使命って何なんだと、改めて失望してしまう。
その昔、海底トンネルが開通したので、本日が最後の就航となる青函連絡船に、カメラとともに青森港から乗り込んだのが、小生初のリポーター仕事だった。1988年、3月半ばの、雪の降りしきる、忘れられないサヨナラ航路だった。函館まで乗船する人の中に、重そうな荷物を大風呂敷に包んで背負ってきたお婆ちゃんたちが毛糸のほっかむりを頭から巻いて、一隅に寄って座っていた。北海道のことなど何も知らない35歳のオレは、ディレクターが言うまま、顔を隠そうとする婆ちゃんに無遠慮に質問を浴びせた。