学生の半分がグラウンドを走り、残りの半分が非行に走る
陸上部は2年生の年に退部してしまった。
「教職課程を取って、卒業したら学校の先生になるつもりでしたが、採用試験に落ちました。その頃ですね、チャプリンの映画を見て、パントマイムに興味を持ったのは。主演作品はほとんど見ました。それで卒業後も定職に就かず、パントマイマーを目指したわけです」
1974年に法政大学を卒業したヒロは、日本マイム研究所でパントマイムを学び始めた。
「僕は鹿児島なまりがコンプレックスでした。なまりがあるから芝居はできない。パントマイムはしゃべらなくていいのでハンディにならないと思ったんです。そしたら先生に、『君の顔はどこか田舎くさいね』と言われて、『そうか、僕は顔もなまってるのか』と思い知りました(笑い)」
その頃はいろんなアルバイトをしたという。
「一番稼いだのは、ピエロのメークと扮装をして盛り場に立ち、時々操り人形のように動く仕事。最近はよく見ますが、当時は珍しい大道芸で、通行人が立ち止まって見入ったものです。全国を回りました」