岡林信康が語る 23年ぶり全曲書き下ろしアルバムへの想い
岡林信康(歌手)
「フォークの神様」が先月、23年ぶりとなる全曲書き下ろしアルバム「復活の朝」をリリースした。1968年に「山谷ブルース」でレコードデビューしてから53年。歌詞に込められた思いや自身の「老い」と「死」、地球環境の悪化、新型コロナウイルスによる生き方や心境の変化、真の幸せとは何か。そしてコロナによって次々と歌が生まれた理由を聞いた。
◇ ◇ ◇
――コロナで人生観は変わりましたか。
今年の夏で75歳になります。ただでさえ自分の老いとか、人生という旅の終わり、死を考える年齢になったので、余計身近に感じるようになった。
――23年ぶりの書き下ろしです。
ボクの場合、創作はできない。小説でいうところの私小説だったり、ドキュメンタリー、ノンフィクションのジャンルだと思うけど、体験が大事。それがないと歌が出てこない。
――23年間、歌を作るような体験がなかった?
この年になると似たようなことの繰り返し。それで歌が出てこなかった。コロナ禍のような体験はしたことがないし、世界が同時に悩み、苦しんでいる。それがすごく刺激になった。何も「最後のアルバム」と宣言したわけではなく、もう歌が出てこない、これが最後だろうという意味です。
――作ろうと思っても作れなかったのか。
いや、無理して作ろうという気はなかった。歌が出てこないならそれでいいし、作詞・作曲の岡林は終わったけど、今まで作った歌がたくさんある。それを歌って「歌手岡林信康」としてこれからやっていこうと思っていた。
――歌わなければならないという使命感なのか。
そんなことは感じていない。田舎暮らしだから3密もないし、畑仕事をしてストレスなくやってたつもりだった。それが歌作りに向かったというのは、自分の知らないところ、気付かないところで何かが心に響き、歌作りに向かわせてくれた。
――自然に浮かんだのですね。
どう考えてもコロナ体験が原因だと思う。自分の中にたまっていた「何か」を刺激して、歌という形で吐き出してくれた。よく「何か」が降りてきてパーッと歌が書けたなんていうけど、そういう感覚になったことがない。「何か」を歌として吐き出すことで、心の平静を保つ作用がある。
■バラ色の人生が待っているような雰囲気が怖い
――どんな思いを込めて作ったのか。
「復活の朝」は昨年の春、中国・北京で工場や車が止まり、久しぶりに青空が戻ったという記事を新聞で読んだのがきっかけ。自然にとって人間はもはや、いない方がいい存在になった。人間がいなくなった地球はどういうことになるのかと考えているうちに、ああいう歌ができた。
――世界中にコロナが蔓延する姿を目の当たりにしてどう感じた?
人間は自然にとって有害な存在になってしまった。いよいよ自然が人間を滅ぼしにきたのかと、ちょっと怖さを感じた。「自然保護」なんていうけど、あの言葉自体がもの凄く思い上がっている。傲慢だと思う。おまえは何様なんだって。自然に保護されているのは人間であって、人間は分をわきまえて生きるべきだと思う。
――人類に対する「いい加減にしろ」というメッセージなのか?
怖いのはコロナさえ乗り切れば、バラ色の明日が待っているような雰囲気になっていること。巨大台風だって人間が招いた地球温暖化が原因といわれている。南海トラフ巨大地震もかなりの確率で起こる。問題は山積している。
――人類が立ち止まって考える必要がある?
人間が手に入れた快適さとか便利さを、ある程度、手放さないといけないけど、そんなこと人間に可能かなと思う。だからウイルスなり、台風なり、地震なり、そういうことでしか文明の減速はあり得ないのではないか。
――「アドルフ」は〈強い指導者を求めている人達がいるとか〉という歌い出しです。
強い指導者が出てきてくれたら問題が一挙に解決できるという「英雄待望論」みたいな風潮は怖い。昔は人に話を聞いたり、本を読んだりして情報を収集したが、今はスマホを使えばボタンを押すだけでどんな情報でも入ってくる。ああいうのに慣れてしまうと、強い指導者が出てきて、「パッパッとうまくやってくれ」ということにつながってしまう。
日本は「荒れ果てた原っぱのような国」
――これまで田舎に引きこもったり、農業に専念していました。
田舎で暮らそうと思ったのは、そもそも田舎で生まれ、育ったから。たまたま「はっぴいえんど」というロックバンドが東京にいて、弾き語りからロックに変わりたいと思い、上京した。でも仕事はほとんどなく、新宿ゴールデン街で飲んだくれる日々を過ごした。こんなことをしていると死んでしまう、やっぱり都会には馴染めない。田舎が恋しくなって、まぁ格好よく言うと、自然と人間の関係をもう一度、自分なりに考え直そうと思い、田舎暮らしを始めた。
――今の日本社会はどう映りますか。
地に足がついていない。人間にとって一番大切なのは食糧。それを非常にないがしろにしている。家の近くを散歩していると、昔、田んぼだったところが荒れ地の原っぱになっている。田んぼや畑を放置しておいて、食糧は何でも海外からお金で買えばいいという、日本は「荒れ果てた原っぱのような国」に見える。
――日本人は生き急いでいますか。
快適さ、便利さがどんどんエスカレートしたら、人間ってどんどんせっかちになる。田植えして草取って稲刈りして、やっと食える。そんな面倒くさいことより、手っ取り早く金を稼いで、外国から輸入すればいいという発想ではないか。
■道具であるお金に奉仕して生きるおかしさ
――コロナによって健康であることが、どれだけ大事か、改めて分かりました。
デジタル社会になって、人間は本来、「人間」という名前の生き物だということを置き去りにしてきた。我々は生身の人間であって友達に会い、たわいない世間話やバカ話をすることが、どれほど大事で楽しいことだったのかが分かった。いくらスマホがあってもダメなんだと気付いた人も多いと思う。
――コロナ禍は人類にとって初めての経験です。
いろいろ考えさせられることもあったし、必ずしも無駄な時間ではなかった。無駄にするか、しないかはその人の受け止め方次第。感受性の問題だから。そういうことも試されているのではないか。自由に動けることが、どれほどありがたいことか。改めて感じさせられた。
――本当の幸せが何か気付かされました。
この時間を無駄にはしたくない。死を感じるから余計、生きていることに幸せを感じる。便利な機械や道具がなくても、楽しく幸せに過ごせると思う。今日も命があった、ありがたいなと思う。人間関係とか、人との交わりがまず第一にこないとダメだと思う。お金もそういうことのために使うのに意味があって、お金をたくさん稼ぐことが目的になると、ちょっとおかしくなる。お金っていうのは人間が作り出した道具だから、そのために奉仕して生きるのはおかしい。
――残された人生をどう生きたいですか。
いろいろなことを決断して、とっぴなことをやってきたと思っていたが、振り返ってみればひとつの流れのような気がします。これからどう生きようかというより、どんなことが待っていても、それを受け止め、どう変わっていくか、どう反応するのかが楽しみです。 (聞き手=滝口豊)
▽岡林信康(おかばやし・のぶやす) 1946年、滋賀県生まれ。父はキリスト教会の牧師。同志社大神学部在学中に東京・山谷の簡易宿泊所で日雇い労働者生活を体験して中退。人気絶頂だった71年、「俺らいちぬけた」を発表後、いったん表舞台から姿を消す。その後、京都府下で暮らしながら演歌、民謡など活動範囲を広げ、音楽活動を続けている。