中川家<下> 兄弟ならではの「あうんの呼吸」と自在アドリブ
中川家と同じ兄弟漫才では「昭和の爆笑王」といわれた中田ダイマル・ラケット師匠。「漫才の教科書」といわれた夢路いとし・喜味こいし師匠の2大巨頭がいらっしゃいます。どちらもセンターマイクの前で一礼をされると“兄弟”ということを一切押し出すことなく、練り上げられた「作品(ネタ)」を見事に演じておられ、何本もの漫才が「名作」として現在も残っています。
一方、中川家は兄弟を前面(全面?)に出して、どこまでがネタなのか、本当にあった話なのかわからないラインを行き来しながら、その時々でリアクションが変わり、兄弟ならではのあうんの呼吸で自在にアドリブを交えて話を進めていきます。舞台経験を積んだ中堅、ベテランならこういうこともできるようになりますが、彼らは若手時代からそれができていた数少ない存在でした。
場の空気を読んで当意即妙に「アドリブ」を入れることはフリートークでもなかなかできませんが、漫才ではさらに難しいものです。10分、15分の持ち時間がある劇場出番では客席の年齢層や男女の比率、いつ出入りがあるかわからないお客さんの動きなどを見ながら自在に変えられるアドリブ性がより求められます。ましてや「M-1」のような4分間で勝者を決める“競技漫才”では必要のない言葉を極限までそぎ落として作り込んだネタでないと勝つことはできません。数えきれない回数の練習で作り上げたネタに急にアドリブが入ることで、その後の展開がボロボロになってしまった若手を予選などで数多く見てきました。