五木ひろしの光と影<2>「ミスター平凡」の称号を手に入れ“演歌歌手の決定版”として期待を集める
この頃、コロムビア専属作曲家の上原げんとの門下生だった16歳の松山まさるがコロムビアの主催するコンクールにエントリーしたのは、ごく自然なことだったのだろう。立場的に一般参加の素人より有利だったのは言うにたがわず、師・上原げんとの推薦もあったはずだ。そうでなくてもこの時期、ヒット曲を連発していた上原げんとはコロムビアにとってなくてはならない存在だった。その配慮は当然あったに違いない。
コンクールに出場した松山まさるは順調に予選を勝ち進み、日比谷公会堂での決戦大会に出場。そこでも難なく勝ち抜き、この年の「コロムビア全国歌謡コンクール」を制した。「ミス平凡」の東ひかりと並んで「ミスター平凡」の称号を手にしたのだ。記事は次のように紹介している。
《青山和子・都はるみさんたちを追って 歌う「ミス・ミスター平凡デビュー」(中略)
「歌うミスター平凡」の松山まさるさんは、コロムビアが演歌調の歌手の決定版として、もっとも期待している歌手です。げんざい明大付属中野高校に在学中で、歌は上原げんと先生について勉強していました。「これからは、歌と学校でたいへんでしょうけど、やるからには立派な歌手になりたいです。大先輩の村田英雄さんを目標に歌いまくりたいです」と、演歌調で勝負する松山さんは、ハリキっていました》(「月刊平凡」65年7月号)
そして65年5月、「新宿駅から」(作詞・古野哲也、作曲・上原げんと)で念願のデビュー。スターの座は目前まで来ていた。誰もがそう思った。しかし2カ月後、松山まさるの運命は急変するのである。=つづく