「シティホテル3号室」金欠とバイトとライブの日々…キングオブコント12度目で初の決勝進出
シティホテル3号室(亮太さん・押田さん)
キングオブコントに12度挑戦し、今月の決勝に初登場して5位に食い込んだ「シティホテル3号室」。亮太さんは配信サービスチャンネルのチェックのバイト、押田さんは塾講師歴16年と苦労を重ねてきた。
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亮太 僕は18歳で大学に行くため、北海道から上京。大学を出た後に2年くらい図書館とパチンコへ行く以外は引きこもった生活をしていて。パチスロ風来坊として稼ぐくらいのギリギリの生活。社会復帰を兼ね、ご家族で経営されていた優しい雰囲気のお寿司屋さんでバイトを始めて5、6年勤めました。芸人になるのはそのあたりから。
次のバイトは、有名な配信動画サービスがちゃんと放送されてるか監視する仕事をしてました。電波の放出ができてるか誰かが確認してなきゃいけないらしく、24時間をシフトで分け、ひとりがオフィスの一室でジーッと画面を監視しているんです。そのバイトは事務所の先輩から紹介されて、芸人ばかりがやっていたんですよ。事務所の先輩のウエストランド河本(太)さん、マヂカルラブリーの村上さん、令和ロマンの松井ケムリくんと、日本で一番M-1優勝者を輩出しているバイト先でしょうね。
押田 僕は大学生だった2008年から中学受験の学習塾ジーニアスでバイトを始めました。毎日子供たちに教えるのに忙しくて自分は大学にほぼ行けなくなり、借金して学費を払っていたので、その頃が一番貧乏でした。今もやってますので16年になります。子供の頃から人前でしゃべる仕事をしたい気持ちはあったので、塾講師は僕に向いてたんでしょうね。
面白い授業をして小学3年から6年までの生徒を笑わせています。学びの根本は楽しさですし、堅苦しい授業は子供は聞いてくれない。楽しい授業の方が生徒の学力は伸びるんです。それに小学生は何を言っても笑ってくれる、いわゆるゲラなので、ウケると「俺って面白いんだ」と思える(笑)。それがあったから芸人になりました。芸人になってからはライブとかで芸人から聞いた話を塾で披露して、さらに爆笑とってます。
亮太 普通は逆だろ(笑)。バイト先で得たエピソードをライブの舞台で面白く話すのが芸人なのに。
押田 今は面白い先生としては確立できた感じです(笑)。でも、まだそれがライブに逆輸入できていない。塾でウケるネタは大人には通用しないと気づきました。
■月に15本のライブエントリー料が月額5万円
亮太 お金の面ではいつもギリギリで。芸人として人気がないからライブに出演するにもお金がかかるんです。実力をつけたいから月に10本、15本とライブにエントリーするために月額5万円ほどかかってますから。お金出してライブに出て時間がなくなるので、満足にバイトもできないからカツカツでした。
でも、そうやってちょっとずつネタがよくなり、「キングオブコント」も1回戦敗退から10年くらいかけて少しずついい結果に。そうなると、知り合いの芸人からライブに呼んでもらえるようになり、お金がかからなくなって少しだけ楽になりましたけどね。
押田 ライブでお金はかかりましたけど、僕はライブ前の時間に塾講師をしっかりやってましたので、芸人になってからのお金の苦労はないんです。むしろ潤ってました(笑)。芸人を始めた頃は毎日塾で働いていたので月に50万近く稼いで。部屋には間接照明とか置いてインテリアに凝ったりしてました。
亮太 そんな芸人、応援したくならないな!
■東大を卒業した教え子からも応援メッセージ
押田 今回キングオブコントの決勝に初進出できて、生徒や卒業生から応援のダイレクトメッセージが来ました(笑)。ある卒業生は東大を卒業して就職しましたが、「今度、社会人芸人ばかりを集めてライブを主催するので出てくれませんか」とオファーもいただきました。だから、決勝に進出できてよかった。
亮太 決勝進出が決まった時は「ついに来たか!」という感じで。着実に階段を上がってきた感覚は持ってましたから、このまま諦めずに続けていれば、いつか決勝にいけるだろうという自信はありました。
押田 僕は「一生、決勝にいけないんじゃないか」という不安もあったけど、決まった時は「一生いけないなんてことはないんだ」と実感できて人生で一番うれしかったですね。
亮太 初出場にしては年齢が高い僕らですが、来年は優勝めざして頑張ります!
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▽亮太(左) 1985年11月、北海道出身、横浜国大理工学部卒業。▽押田(右) 1985年10月、神奈川県出身、明治大学文学部中退。 2011年に活動開始。13年からキングオブコントに挑戦。今月、決勝に進出し5位に。2カ月に1度開催のタイタンライブ(時事通信ホール)に出演中。次回は12月13日、詳細はタイタンHPまで。