秋山豊寛 日本人初の宇宙飛行を行ったTBS記者
■1990年12月
89年3月、開局40周年を2年後に控えたTBSは記念事業として、社員を臨時宇宙飛行士に仕立て、ソ連宇宙ステーション「ミール」に搭乗させるという仰天計画を発表した。
同年8月16日、162人の応募者から医学検査と適性テストを通過した23歳から47歳の社員7人が発表された。その中で最年長の秋山豊寛外信部副部長は「ぼくらが抱えている脆(もろ)い“ガラスの地球”から地球を守ろうという問題について報道できればと思います」と1次選考を通過した抱負を語った。
その後、ソ連側の最終テストを経て候補者は9月に秋山記者と菊地涼子カメラマン(当時25)の2人に絞られた。
この計画は、国内宇宙開発関係者に大きな衝撃を与えた。同時期、宇宙開発事業団でも日本人初の宇宙飛行を目指して毛利衛、向井千秋、土井隆雄の3人を候補として選び、スペースシャトル搭乗の訓練を行っており、誰もが日本人の初飛行はこの3人から選ばれると考えていた。しかし、当初、88年に予定されていたシャトルの飛行は86年のチャレンジャー爆発事故で計画がストップして日本人のシャトル搭乗は延期。このため、プロジェクトは「日本人宇宙一番乗り競争」に発展する騒ぎとなった。