「尊厳死」を巡る厚労省の思惑とリビング・ウィル(生前の意思)の必要性を考える
私が老人医療に携わるようになった1980年代は、尊厳死のような考え方があり、苦しそうな高齢者に「人工呼吸器をつけますか?」と家族に確認すると、「十分頑張ったのでこれ以上は無理をさせたくありません」といったことを返されることがありました。そういったやりとりで、医療者側は医療を手控えることになるわけです。
その尊厳死の流れに乗ったのが当時の厚生省(現・厚労省)でした。尊厳死が議論される前はなるべく延命する方向でしたが、少子高齢化の急速な進展もあって医療費が膨張。国の財政が苦しくなってきたからといって、「医療費が高いので延命治療をやめましょう」とはいえません。そこで、話のすり替えで尊厳死の考え方を支持したのです。
さらに厚労省は“最期は病院から自宅へ”という「在宅死」という言葉まで持ち出しました。世論をそちらに誘導した背景があるのです。
そんな中、コロナ禍が襲い、そんな流れを吹っ飛ばしてしまいました。コロナ病棟では、家族の意思も確認せず、ECMO(エクモ、人工心肺装置)や人工呼吸器につながれる患者が相次ぎました。コロナ禍によって、望まない延命治療で尊厳死が無視されていることも、一部ではあるのです。