空前のフィーバーを巻き起こした定岡正二氏が直面した光と影
11年目のシーズン終了翌日、電話が鳴った
「近鉄へのトレードが決まったから」
「えっ?」
85年のことである。あまり話をしたことがない球団フロントの人間からだった。
「せめて球団事務所で直接言ってくれたら、あそこまでかたくなにならなかったかもしれません」
電話一本での通告──。どうにも納得がいかなかった。81年11勝、82年15勝。この年は中継ぎとして47試合に登板し4勝3敗。少なからずチームに貢献しているという思いもあった。
返事を保留し、自宅にこもった。義理を大事にする薩摩隼人の反骨心。流されるのが嫌だった。誰にも相談せずに近鉄へのトレードを断ることを決断。そうなると、ユニホームを脱ぐしか道はない。29歳で「任意引退」となった。保有権は巨人にある。近鉄へのトレードを拒否しておいて、他球団への移籍など認めてくれるはずはない。
「その後に西武の根本陸夫さん(管理部長)と大洋(現DeNA)の近藤貞雄監督が声を掛けてくれて、うれしかった」
世間からは「巨人以外でやりたくないから引退した」と見られていた。しかし、実際はまだ未練があった。
長嶋監督に引退を報告すると、大リーグ・ドジャースの会長に紹介状を書いてくれた。春のキャンプに参加すると紅白戦で好投。トミー・ラソーダ監督から「3Aなら」とオファーされたが断った。
「前の年に江夏豊さんがメジャー昇格できなかったこともあるけど、その前からずっと右ヒジが痛かったんです。実は最後の方は、馬用の軟膏をヒジに塗りながら投げていた。猛烈に熱くなるから痛みが麻痺する。人間用の薬では全然効かないほどだった。恐らく『ネズミ』という遊離軟骨ができていたと思う。今なら手術をすれば簡単に治ったかもしれない。しかし、当時はメスを入れたら終わりという時代。だから巨人では言えなかった。痛いと言ったら、『じゃあ補強しましょう』でボクは終わり。このヒジではメジャーはムリだと思った。けじめをつけさせてくれたミスターには本当に感謝しています。あの試合がなかったら、ボクは次に進めなかった。ただ、引退して数年間はランニングなどトレーニングを続けていたんです。もしオファーがあれば現役復帰したいと思っていたからです。投げないとヒジは痛まない。どこかに『まだやりたい』という未練が残っていたんでしょうね」