青学大に落ちた直後、「今岡ならOK」と東洋大学入学が即決定。PL学園の底力を知った気がした

PL学園3年春、学校に「青山学院を受けろ」と言われ、合格は決まっていると思っていたセレクションでまさかの不合格。その後、「青山学院は(国学院久我山の)井口資仁(ダイエー)を取るから、同じ内野手は取らない」という噂を聞いた。
高校生の僕はショックを受けたが、すぐにPL学園のOBが「よし、それなら次は東洋(大)に行こう」と動いてくれた。すると、「PLの今岡なら、もちろんOK」と二つ返事で合格という。青学大に不合格で落ち込むヒマもなく、あっという間に同じ東都大学リーグの強豪、東洋大へ進学することが決まったのだ。この時ばかりは名門・PL学園の底力を知った気がした。ゴーサインを出してくれたのが東洋大の高橋昭雄監督だった。
4年後、その高橋監督が、今度はアトランタ五輪の日本代表に推薦してくれたおかげで、銀メダルが取れた。青学大に合格しなくてよかったとまではいわないが、高橋監督との出会いが、僕の野球人生を大きく変えたのは間違いない。
当時の青学大には、4年の小久保裕紀さん(ダイエー)を筆頭に好選手がズラリ。仮に僕が入ったとしても、とても1年から出られるメンバー構成ではなかった。同級生を見ても、井口をはじめ、沢崎俊和(広島)、清水将海(ロッテ)、倉野信次(ダイエー)といった選手たちが青学大の門を叩いており、黄金期を築いていた。
一方、僕は東洋大で1年春のリーグ戦からレギュラー。1学年上には清水隆行さん(巨人)らが在籍していて、青学大と優勝争いをするという立ち位置だった。
高橋監督は練習中にミスが起きると、選手を集合させ、1時間でも2時間でも延々と怒り続けることもザラ。良くも悪くも昭和の指導者という感じで、怖いというより「口うるさい」監督だった。
僕は中距離打者だが、在籍中、こう言われ続けた。
「おまえは
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