甲子園観戦で騒然 清原が野球に携わるのは甘さではない
去る8月下旬、あの清原和博氏が甲子園に現れた。夏の高校野球全国大会の決勝戦を某雑誌の企画で観戦したわけだ。
同大会は第100回記念大会であったから、周辺では過去の名場面を振り返る企画がいくつも実施された。そういう企画において清原氏は絶対に外せないレジェンドであり、そもそも今夏は、彼の名をメディアで見聞きする機会が多かった。あの事件さえなければ、桑田真澄とのKKコンビで甲子園のグラウンドに立つ、なんてシーンも実現していたかもしれない。
もちろん、清原氏の甲子園観戦は大きな話題を呼んだ。ちょうど文芸春秋から発売中の著書「清原和博 告白」がベストセラーになっていることも合わせて、やはり同氏への世間の関心は今も極めて高い。もっとも、その関心の大半は栄光からの転落劇や薬物に手を出した経緯の詳細、さらには現在の暮らしぶりなど下世話な好奇心によるものかもしれないが、その一方で清原氏が語るド直球の野球論についてのニーズはどうなのだろう。
私としては、ここに最も欲求がある。あの事件による球界の主たる損失は、あれだけの大打者の野球論を発信できなくなったことであり、あれだけの大打者が後進の指導をできなくなったことだ。電波芸者の野球タレントとしての彼はどうでもいいが、こと野球論になると、事件前後でも彼の価値は変わらない。