高校球児の気持ちを尊重するのはプレーヤーズファーストか
その昔、プロ格闘技の仕事に少し関わったことがある。普段の私は「作家」という大ざっぱかつ大層な肩書を羞恥に耐えつつ使用しているが、それはもちろん便宜上のことである。その内実は小説家、エッセイスト(雑文書き)、放送作家、脚本家、漫画原作者など、いろいろあり過ぎてうさんくさくなるから簡略化しているわけで、とにかく何が言いたいかというと、そんな雑多の仕事の中には某格闘家のブレーン的なものもあったのです。
当時、よく覚えているのが、その選手に危険な試合のオファーがあった時のことだ。私は素人なりに「体重差がある」「ケガをしている」などの理由でオファーを断るべきだと意見したのだが、その選手は「やりたい」の一点張りで、さらにはトレーナーなど周囲の玄人まで「選手がやりたいなら、やらせるべきだ」「選手の気持ちは選手経験者じゃないとわからない」と言って後押しした。
この時、私は違和感を覚えた。選手の気持ちを優先するだけなら、そもそも選手サイドの他人はなんのためにいるのだろう。選手は人生を懸けて競技に熱中しているのだから、時として視野狭窄に陥ることは十分に考えられる。だから、そんな異常時に選手の健康面などを考えて的確な判断を促せる赤の他人は必要で、その他人は選手の気持ちとは別の見地に立たなくてはならない。選手の気持ち、これは時に自殺行為もいとわない危険な感情論になってしまう。