反町康治さん<3>誕生日に誘われ銀座のクラブでドンペリを
羽田空港にある乗務管理課で働くのは午前中だけで、午後からはサッカーが仕事だった。正午になると周囲に「行ってきま~す」と挨拶し、サッカー部員4~5人と一緒に練習場まで車で移動した。当時、全日空サッカークラブは日本リーグの2部で、自前のグラウンドも持っていなかった。練習場はその日暮らし。決して恵まれた環境ではなかったが、反町さんが入部した年に1部に昇格。それから93年発足のJリーグ加盟へとつながっていく。
「我々が半ドンで上がることに対して、最初は部署内でも“何だ?”というふうに受け止められていたと思います。ただ、そのうち興味を持ってくれるようになり、応援もしていただいた。疎外感はなかったです。それに僕は会社にお願いして、YS11のコーパイ(副操縦士)の月間スケジュールを作らせてもらっていた。半日しかやれないじゃないかと言われましたが、やらせてくださいと。だから、練習が終わったあとも会社に帰って仕事をしていたんです。横浜で練習があれば、横浜駅のそごうのところからバスに乗って羽田空港まで戻る、という具合。会社は一人前の社員だと見てくれていました」
サッカーを続けられるのは30歳ぐらいまで、その先は一社員として働くことになる。通常の業務もきっちりこなしておかなければ苦労する――。反町さんは、常にサラリーマンとしての未来を頭に描いていた。上司や先輩のメシや酒の誘いにも二つ返事で付き合った。