(1)コロナ禍の真っただ中 超高額年俸「爆買い」で栄華を誇った中国リーグからの誘い
新型コロナウイルスが猛威をふるっている中国で暮らし、サッカーバブル崩壊を目の当たりにしながら2年間、仕事をしてきました。
現役時代はJSLの本田技研から鹿島、京都、神戸、新潟、大宮とJクラブでプレー。日本代表に1989年から97年まで選ばれて、24試合.4得点という記録を残しました。2003年に引退して10年に新潟の監督に就任。12年の途中まで指揮を執った後、大宮や鹿島でコーチを務めました。
20年の年末でした。中国の超級(1部)リーグの山東泰山足球倶楽部から「ヘッドコーチをやってみないか」という声がかかりました。この年は年頭から新型コロナウイルスが大流行し、2月にJリーグの休止が決まったり、プロ野球の開幕が延期になったり、著名人の死去も相次いで日本国内の移動にも、厳しい規制が設けられました。
中国では「ゼロコロナ政策」が敷かれ、規制だらけの日本からも想像がつかないような厳しい制限がかけられました。
一時は「コロナを封じ込めた」とアナウンスされました。でも、世界中でコロナによる死者が急増しているのに「中国だけ無傷ということはあり得ない」と思いました。