布施博さんが振り返る 団地で過ごした古き良き昭和時代
とにかく何か口に入れさせようと、おふくろなりに精いっぱい、知恵を絞ってくれたんだと思う。それが八百屋、豆腐屋の定番コース。恥ずかしかったけど、今となっては懐かしいもんだよ(笑い)。
俺が生まれたのは板橋区常盤台で、育ったのは足立区鹿浜でした。オヤジは手先が器用な左官職人でね。腕はいいんだけど、エライ短気ってのが玉にきず。ホント、ロケット型瞬間湯沸かし器って感じで、気にくわないことがあると食事中でもマジでちゃぶ台返ししたからね。リアル「巨人の星」星一徹でしたよ。
そんな性格だから仕事は不安定。収入が低かったんだと思う。家は最初はオンボロ木造アパートの6畳一間に4人暮らしでした。トイレは共同、風呂なんてないし、隣の部屋の物音がまる聞こえ。オナラも聞こえてきたくらい(笑い)。
■6畳一間暮らしが風呂なし2Kの都営住宅の抽選に当たって激変
激変したのは小3の時です。都営住宅の抽選に当たったんです。
引っ越したのが鹿浜エリアにある5階建て集合住宅の4階・風呂なし2K。マッチ箱みたいな画一化された5階建てマンションが五十数棟、無機質に立ち並ぶ巨大団地の一角でした。大人になって家賃は5000円だったと聞いたことがあるけど、40年ほど前ながら、結構、安いでしょ?