平田満さん 機動隊と学生が対峙する中で「飛龍伝」を上演
退職して行き場をなくしたサラリーマンや、ちょっとワケありの中年男の悲哀を演じさせたら右に出るものがいない平田満さん(66)。風間杜夫や石丸謙二郎ら学生時代につかこうへいと出会わなければ今の役者人生はなかったという俳優は多いが、つか氏と最も濃密な演劇人生を共有したのが平田さんだ。
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1972年に田舎(愛知県豊橋市)から上京して早大文学部に入学しました。新入生勧誘の看板が並んでいる構内を歩いていたら、「劇団暫」という立て看板があって、呼び込みの学生に誘われるまま狭くて汚い劇研(早大演劇研究会)のアトリエに入ったのですが、芝居といっても、赤いじゅばん姿で踊ってる女の子もいるし、大声で絶叫してる男もいる。後から考えたら、状況劇場や黒テント、天井桟敷、早稲田小劇場など当時人気のアングラ劇団の芝居をコラージュしたような舞台だったんです。芝居を見たことがない私は何が何だかわけがわからない。そのエネルギーに圧倒され、後片づけを手伝ったら、そのまま打ち上げに残ることになりまして、酒盛りをしてるうちに「入部します」ということになったんです。
■初めて会ったつかさんは眼光鋭く威圧感を漂わせた“大人の男”
ところが、夏休みで田舎に帰ったらすっかり情熱が失せてしまい、劇団に退団届を送ったら、主宰の向島三四郎さんから何度も手紙が来まして、「今度、慶応で芝居やってるスゴイ人が早稲田に来るんだ。つかこうへいという人でね。その人と一緒にやってみないか」と。根負けして、退団は撤回。大学に戻ると、「暫」と「つかこうへい事務所」の提携公演を行うことになっていました。作・演出はつかさん。初めて会ったつかさんは5歳年上だったから、私から見たら大人。痩せぎすで眼光が鋭かったですね。
稽古の時もつかさんの威圧感にみんなが軽口を叩くような雰囲気でもない。大学の周りをマラソンしたり、へとへとになるまで踊らされたりして、高校時代にラグビーをやっていた私には演劇というより、運動部の延長のようなものでしたね(笑い)。
たばこを吸いながら、時々「バカヤロー」という声と共に灰皿が飛んでくることもありました。もっとも、それもつかさん一流のパフォーマンスだったんでしょう。
この後、つかさんとは、つかこうへい事務所の最後の舞台「蒲田行進曲」まで伴走することになります。
今でも、つかさんの芝居は体にしみついていますね。先日、ある舞台に出た時に、相手役と言い合いになるシーンで自分でも分からないうちにいきなりテンションが急上昇してしまい、「あれ、この感覚はなんだか懐かしいなあ」と(笑い)。