山川豊さん「アメリカ橋」録音で“黄金コンビ”24年ぶり復活
山川豊さん(歌手・61歳)
作家、作詞家、銀座の伝説のクラブ「姫」のママとして知られた山口洋子が亡くなったのは2014年。歌謡界では作曲家・平尾昌晃とともに、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」や「夜空」などのヒット曲を世に送り出し、ゴールデンコンビと言われた。しかし、1974年、中条きよしの「うそ」を最後にコンビによる楽曲は途絶えていた。復活は24年後、山川豊の98年のヒット曲「アメリカ橋」だった。これはレコーディングの貴重なスリーショット!
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この世界には五木ひろしさんに憧れて入ったので、生意気かもしれないけど、五木さんの「よこはま・たそがれ」や「夜空」を作詞・作曲した山口先生、平尾先生にいつかは曲をいただきたいと思って歌手生活を送っていました。デビュー早々というわけにはいかないので、15年くらいしてからかな、今は亡き事務所の長良(じゅん)会長には折々にお願いしていました。会長には「わかった、いずれな」と言われてましたが、なかなかタイミングが合わなかった。
当時、山口先生は作詞家としてより作家としてご活躍されていて、長患いもしてらっしゃったので、半ば諦めかけていました。ところが、病気がよくなり、回復したという。会長がそのタイミングで山口先生にお願いして、「うそ」以来24年ぶりのコンビ復活になりました。
デビューは81年の「函館本線」。それから17年後、98年に山口先生、平尾先生のコンビの「アメリカ橋」の発売が決まりました。
長良会長は山口先生とは長い付き合いです。会長がいなかったら「アメリカ橋」はできなかったと思います。両先生には「アメリカ橋」の後も2000年の「雪舞橋」「逢えてよかった」と連続で作っていただくことになりました。
「これだ」と平尾先生が叫んだ曲は…
山口先生の歌詞はすぐにできました。当時、僕はアメリカ橋のすぐ近くに住んでいたから、何も知らないはずの山口先生の歌詞を見た時は、正直、驚きました。
ところが、歌詞と平尾先生の書く曲がマッチしない。何十曲書いてもらっても山口先生も会長も「違うんだよな」となかなか決まらない。普通なら平尾先生だって怒りますよ。でも、何十年ぶりのコンビの作品、みんな妥協はできない。気晴らしに4人でカラオケにも行きました。それでも平尾先生はメロディーが浮かばなかった。最後は平尾先生に「行こう」と言われ、2人でカラオケに行きました。これまでとは違う曲を作りたいから、「演歌は歌わない、ポップスを歌う」と2人で決め、郷ひろみとか安全地帯とか何曲も歌いました。そうしているうちに、「これだ」と平尾先生が叫んだのが井上陽水の「リバーサイドホテル」。
後から先生に聞いた話ですが、頭の1小節、出だしが出てこなかったそうです。「リバーサイドホテル」の出だしを聴いてやっとひらめいた。できあがった曲を聴いた長良会長も山口先生も「これだよ、マーちゃん、待った甲斐があった」と喜んでました。
アレンジはあまり演歌はやらない矢野立美先生が担当しました。イメージしていたのは今までにないヨーロピアンなオシャレなメロディー。山手線の恵比寿駅と目黒駅の間にあるアメリカ橋。別れた男女が何十年かぶりに出会う。トレンチコートを着てたたずむ男と女が言葉を交わす。男が「髪切ったの?」と言うと「たばこ、やめたの?」と聞く。2人は若かったころを思い出す……。平尾先生はそんな青春のにおいをイントロから表現してほしいとお願いしていました。
会長もこの曲にかける思いは強かったと思います。事務所の大先輩の中村玉緒さんが主演しているドラマ「いのちの現場から」の主題歌にしてもらうからと動いてくれて、五木先輩は発売前から「自分のアルバムに入れる」と言ってくれました。五木さんを目標にこの世界に入ったのでうれしかったですね。
「生きててよかった」と語った日本作詩大賞受賞
さあ、レコーディングです。1時間前にスタジオ入りしましたが、両先生がすでに入っていました。僕の方が遅かったので、「すいません」と挨拶して、両先生の前に座ったら世間話、野球談議が始まりました。
それから1時間半くらいしたら、「じゃ、歌ってみようか」と言われ、考える間もなく歌ったら一発OK、ノー編集です。あんなレコーディングは久しぶりでしたね。「山川は目いっぱい練習してくる。でも、それじゃダメなんだ」というので、両先生がリラックスできる雰囲気をつくってくれたんですね。
山口先生はいつも笑顔がすてきな方でした。その時は体調がよかったんだと思いますね。柔らかな笑顔で平尾先生とはあうんの呼吸という感じで和気あいあいとしていました。この時は、久々のコンビ復活ということでいっぱい写真を撮っています。
実はあんなにヒット曲があるのに、山口先生は「アメリカ橋」で初めて日本作詩大賞を受賞しました。
授賞式に一緒に出て、先生と僕が名前を呼ばれた時は思わず抱き合いました。その時、先生がステージで「生きててよかった」と言ったのを思い出しますね。この時、他の方のヘアメーク担当だったIKKOさんがその様子を見ていたそうです。
この前、テレビ東京の番組でご一緒したら授賞式の話になって、「生きててよかった」という先生の言葉が忘れられないと言って、涙を流していました。
3年前には平尾先生も亡くなりました。時代が求めるものを常に作り続けた方です。もし「アメリカ橋」を作っていただかなかったら、僕はもっと大変だったと思います。感謝です。
(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)